極夜
パチパチと何かが弾ける音が聞こえてきた。
漆黒の闇の中、焚き木の火が音を立てながら、柔らかい光で辺りを照らしている。
その火にあたりながら、ヨウコは隣にある小さなテーブルからカメラを持ち出した。
そして椅子からゆっくり立ち上がると、ふと空を見上げた。
空は暗く、雲ひとつない天気で、星が無数に広がっている。
ヨウコは山頂の崖の広い場所で小さいテントを張り、キャンプをしていた。
ヨウコは辺りを見回すが、ヨウコ以外は誰もいない。
今日も、あのおじさんはいないのか・・・・・。
ヨウコは前に歩きだし、崖の麓で足を止めると、右側を向いた。
右側の少し先にも同じような崖がある。
今夜は来るかしら・・・・・・・。
あの出来事がなかったら、今の私はここにはいない。
ヨウコはカメラを構えながら、何かを探すように崖の麓を見つめていた。
その出来事は数年前に遡る。
当時、ヨウコには愛する人がいた。
全て順調で、そのうち結婚するだろうと思っていた矢先、
その恋人は突然の事故で帰らぬ人となってしまった。
突然1人になってしまったヨウコは、その日から悲しみに暮れる日々を重ねていた。
仕事はもちろん、何もかも手につかない状態になり
泣いてばかりの日々を過ごしていた。
そうしているうちに、自分は何のために生きているのだろうと思い始めた。
あの人がいない人生なんて考えられない。
私はこのまま生きていても意味がない。
それなら、あの人のところへ行こう。
ヨウコは次第に自分も死のうと思い始めた。
ヨウコはまず自分の部屋で自殺をしようと、自分の手首にナイフを向けたが
自分が死んだ後の事を考えると、迷惑がかかると思いできなかった。
電車や車の前に飛び込もうとも考えたが、いざやろうと思うと飛び込む勇気がなかった。
そんな中、ヨウコはテレビで偶然、雪山で遭難し人が亡くなったニュースを見た。
そうだわ。
山に登って頂上から飛び降りれば・・・・・・。
それなら誰にも気づかれないし、誰にも迷惑がかからないかもしれない。
近くの山を探そう。
ヨウコは近場の山を探し、行く準備を始めた。
遠くに出かけても、どうせ死ぬのだから誰にも気づかれなければ死に場所は近場でも構わない。
食糧も、山頂に着いたらすぐに飛び降りるのだからと最低限の量をカバンに入れた。
翌日、ヨウコは山へ行こうと外に出た。
その日の天気は朝からすっきりしない天気で、空には薄暗い雲が広がっており、どんよりとしている。
ヨウコが歩き出した途端、冷たい風が吹いてきた。
黒の薄いウインドブレーカーにジーンズ姿のヨウコは、冷たい風に一瞬体が縮みこんだが
どうせすぐ死ぬのだからと我慢をして歩き続けた。
電車を何度も乗り継ぎ、山に着いた頃はもうお昼を過ぎていた。
山に入り歩いて行くと、空から白い雪が降り始めた。
空気が冷たく、ウインドブレーカーを着ているとはいえ、薄着のヨウコは体を震わせながらも
山頂に向けてひたすら歩き続けた。
ヨウコが山に入って数時間が経過した。
雪は止んだが辺りはすっかり暗くなり、ヨウコは自分がどこを歩いているのか分からなくなってきた。
どうしよう、まだ山頂に着かないのかしら。
もしかして道に迷ったのかもしれない。
ヨウコはウインドブレーカーのポケットに入れていたスマホを出した。
家を出る時に誰からも連絡が来ないように、予め電源を切っておいたのだが
スマホ以外周りを照らすものがなく、仕方がないと思い電源を入れた。
スマホから光が漏れると、ヨウコはその光で辺りを照らした。
ヨウコがスマホを前に向けると、緩やかな登り坂になっているのが見えた。
登り坂になってる。とにかく登っていくしかないわ。
ヨウコは前を向いたまま歩き始めた。
しばらく歩いていると、前の方に何かがいる気配を感じた。
何だろう。何かガサガサっていう音が聞こえる。
何かがいるのかしら・・・・・・。
ヨウコが前を見ながらスマホの灯りを向けると、少し先に一匹の中型の茶色の犬の姿が見えた。
犬だわ・・・・・・もしかして野犬?
ヨウコが犬に気がつくと、その犬はヨウコに向かって歩き始めた。
するとさらにガサガサという音が聞こえ、その犬の後ろに数匹の犬が集まってきた。
低い唸り声を上げながら、その犬達はだんだんヨウコに近づいてくる。
ヨウコは野犬のテリトリーに入ってしまったようだった。
いや・・・・・来ないで。
ヨウコはゆっくりと後ずさりをしながら、野犬から離れようとした。
しかし野犬達はだんだんとヨウコに近づいていく。
ヨウコと野犬達の距離はだんだんと縮まっていく。
いつ野犬がヨウコに襲い掛かってくるのか分からない状況だった。
も、もうダメだわ・・・・・・・・。
あまりの恐怖に、ヨウコはその場に座り込んだ。
その時、後ろから突然強い光がヨウコの体を照らした。
「こら!お前ら向こうへ行け!」
低い男性の声が聞こえたかと思うと、後ろから1人の男性が左手に大きなランプを持って現れた。
そして野犬に向かって、右手に持っていた太い木の枝を投げつけたかと思うと
肩に抱えていた細長い銃を構え、野犬に向かって数発、威嚇射撃をした。
野犬達は弱々しい声を上げながら、素早く左右に逃げ去って行った。
「大丈夫か?」
男性がその場で座っているヨウコに近づいて声をかけると、ヨウコは顔を上げた。
目の前には分厚いダウンジャケットを羽織り、フードを被った中年の男性がいた。
ヨウコは黙ってうなづくと、ゆっくりと立ち上がった。
男性はヨウコの服装を見たとたん驚いた。
「こんな天気なのに、そんな薄着で山の中を歩いていたのか!一体この山に何しに来た」
「・・・・・・・」
ヨウコが黙っていると、男性はこう言った。
「とにかく、私のテントに来なさい。話はテントに行ってからゆっくり聞こう」
男性はヨウコを連れて、山頂の自分のテントが張ってある場所に戻ってきた。
今まで大きな木々に囲まれていたところから、開けたところに出てくると
空はすっかり真っ暗で、星が無数に輝いていた。
ヨウコはテント前にある折り畳み式の椅子に座った。
しばらくして男性がヨウコに分厚い毛布と温かいコーヒーが入ったコップを渡すと
ヨウコの隣に座り、自分もコーヒーを飲みながらヨウコの話を聞いていた。
ヨウコの話を聞き終えると、男性はしばらくしてから話し始めた。
「・・・・それで、この山に来たのか」
ヨウコは黙ってうなづくと、男性はコーヒーを一口すすって、静かにこう言った。
「死ぬのはやめておけ」
ヨウコが何かを言いかけようとすると、男性は続けてこう言った。
「生きていれば誰にでも不幸はやって来る。大切にしていたものが突然の出来事で奪われることもある。
でも・・・・・それで自分の人生をあきらめたらだめだ。後悔するぞ」
「でも私・・・・もう生きているのが辛いんです。何のために生きているのか分からないんです」
「何のためか・・・・・それはこれから自分で見つけるんだ」
男性は空を見上げながら、ゆっくりと立ち上がった。
そしてその場から離れようとすると、ヨウコは不安そうな顔で男性を見ている。
男性はそんなヨウコを見て
「お腹空いてるだろう。食べるものを取ってくる・・・・お腹いっぱいになれば前向きになれるだろう」
とその場を離れ、テントの中へと入って行った。
食事の後、再び男性がヨウコの隣の椅子に座った。
「今夜はもう遅いから、このままテントに泊まっていきなさい。夜の山はもっと危険だから」
「すみません。迷惑をかけてしまって・・・・・」
「いや、いいんだ」ヨウコが謝っていると、男性は首を振った。
「いつも1人で退屈してるから、たまにはこうして誰かと話をするのも悪くないと思って」
「いつもって・・・・ここにはよく来ているんですか?」
「いつも来ている訳じゃないが、時間があればできるだけ来るようにしてるんだ。趣味の一環でね」
「キャンプが趣味なんですか・・・・・」
ヨウコが途中まで言いかけると、男性は首を振りながら答えた。
「キャンプもそうだが・・・・・実はもうひとつ目的があって来ているんだ」
「え・・・・・もうひとつの目的って何ですか?」
「この山には白いオオカミ、ホワイトウルフが棲んでいるんだ」
それを聞いたヨウコは驚きを隠せなかった。
「え・・・・・白いオオカミがいるんですか?」
「そうだ」と男性はうなづいて、話を続けた。
「初めて会ったのは数年前のことだ。その日は大雪だった。
山道を歩いていたら、偶然小さくて白いオオカミの子供が雪の上に倒れているのを見つけた。
最初はいるのかどうか分からなかったが、何かが動いたと思ってよく見てみると、体から血が出ていた。
おそらく、誰かがその子供に銃を向けたんだろう・・・・。まだ動いていたから手当をすれば治ったはずだ」
「え・・・・・その子供を助けなかったんですか?」
「手当をしようと思ったが、近づこうとしたらどこからか唸り声が聞こえた。
近くに親がいたんだ。そうなるとうかつに手を出せない。親に襲われてこっちがケガをするかもしれない。
それに人のにおいがつくと、親はその子供を手放してしまう・・・・そのまま見過ごすしかなかった」
「・・・・・・」
「しばらくして、また山に入った時、白いオオカミの姿を見た。子供の姿はなかった。
その子供の親かどうなのかは分からないが、それ以来子供の姿を見ていない・・・・見ているのはその
一匹だけだ」
「その・・・・白いオオカミは今はその一匹しかいないんですか?」
「昔は数匹いたが、今はその一匹だけになってしまった。この山に棲みついているが滅多に姿を見せなくなって
しまった。物珍しさでみんなが手に入れようと乱獲したせいだ」
ヨウコが黙っていると、男性はしばらくして聞いた。
「今夜も白いオオカミを見に来たんだ。興味があるなら、一緒に白いオオカミを見るか?」
「え・・・・・いいんですか?」
「その代わり、いつ来るかは分からない・・・・夜明けに出てくることもある」
「構いません」ヨウコはうなづいて続けてこう言った。「見てみたいんです。その白いオオカミを」
2人はテントの前の焚き木の火にあたりながら、白いオオカミが来るのを待っていた。
男性が焚き木の火をくべようと木の枝を火の中に入れている。
ヨウコは眠くなってしまったのか、座って空のカップを両手で持ったまま、目を閉じてうつらうつらとしている。
男性が眠っているヨウコに気が付くと、声をかけた。
「おい」
ヨウコが反応せず、そのまま眠っていると男性はもう一度声をかけた。
「おい、眠いのか?白いオオカミは見なくてもいいのか?」
するとヨウコが気が付いて、はっと目を開けた。
そして男性を見ると、それを見た男性は
「眠いのなら、奥のテントで寝ればいい。無理して起きていなくても・・・・・・・」
「いいえ、起きてます。白いオオカミを見ます」
ヨウコが首を振りながら答えると、男性は少しあきれたような様子で
「ずっと山の中を歩いて疲れているんだろう。テントの中で休んだ方が・・・・」
「い、いいえ。大丈夫です」
ヨウコは眠気を覚まそうとゆっくり立ち上がった。
そしてコップを横のテーブルに置くと、両手を上に上げて伸びをした。
それから数時間後。
空はさらに暗くなり、星の輝きもはっきりと見えるようになっていた。
明るい星はもちろん、暗くて小さく輝いている星も見える。
2人は他愛ない話をしながら、白いオオカミが来るのを待っていた。
話が途切れるとヨウコは星空を見上げた。
こんなに星がきれいだなんて・・・・・・。
今までゆっくりと夜空を見ることなんてなかったわ。
すると遠くから何かが吠えているような声が聞こえてきた。
それを聞いた男性は立ち上がった。
「あの声は・・・・・白いオオカミだ」
男性が椅子から離れると、ヨウコも後を追って歩き出した。
崖の麓まで行き、男性が右側を見た途端小さな声をあげた。
「やっぱり、白いオオカミだ・・・・・」
「どこ・・・・どこにいるんですか?」
男性の後ろでヨウコが聞くと、男性は後ろを振り返った。
「前の少し先のところに崖がある。そこの麓に白いオオカミがいる」
男性はそう言った後、ヨウコが見えるように前を空けた。
ヨウコは男性が言った場所を見た。
最初、どこに崖があるかよくわからなかったが、麓に白い何かが動いているのを見つけた。
しばらくしてそれが白いオオカミだと分かると、再び遠吠えの声が聞こえてきた。
何だろう、この声・・・・・・。
聞いていてなぜか悲しく感じる。
何かに向かって吠えているみたい。
ヨウコは白いオオカミが吠えている先を見た。
すると白いオオカミの先に、小さくて白い満月が空に浮かんでいる。
その満月に向かって吠えているようにヨウコは感じた。
あのオオカミ・・・もしかしたら亡くなった子供のことを想って泣いているのかもしれない。
ヨウコは白いオオカミの姿を見ていた。
夜空の満月の光で輝いているように見える白い毛並み。
遠く浮かんでいる満月に向かって吠えている白いオオカミに、ヨウコはいつの間にか引き込まれていた。
その時、ヨウコは亡くなったオオカミの子供と亡くなった恋人とを重ねて見ていたのかもしれない。
しばらくして白いオオカミが後ろを向いた。
そしてゆっくりと歩き出し、麓から姿が見えなくなると
ヨウコは白いオオカミが入った森の方をじっと見ていた。
2人はしばらくして男性のテントに戻ると、ヨウコはテントに入り、眠りについた。
「すみません。おはようございます」
その声に気が付いて、ヨウコが目覚めるとゆっくりと起き上がった。
テントの入口を開けると、外には1人の男性の警官が立っている。
外はすっかり明るくなっていた。
「あなたですか、昨日この山で自殺しようとしたのは・・・・・・」
ヨウコの姿を見るなり、警官が話を始めた。
ヨウコは戸惑いながら
「え・・・・・?どういうことですか?どうして警察の方がここに」
「実は昨日、ずっと電話で連絡をしたけど電話に出ないし、メールもLINEも返事が来ないっていう連絡が
あなたのご両親から警察にありましてね。
もしかしたら何かあったんじゃないかっていうことで探していたんですよ」
「え・・・・・・?」
「それで探していたところ、ちょうどそれらしい女性がこの山に来ているとの連絡がありましてね。
こちらに伺った訳です」
「え・・・・電話で連絡があったんですか?ここにいるって」
「そうです。さきほどその電話をした男性に話を聞いたところです」
あのおじさん、警察に電話してたんだ。
でもいつの間に・・・・・・?
ヨウコは辺りを見回すが、男性の姿はなかった。
「今からこの近くの交番まで、一緒に来ていただいてもよろしいですか?」
警官がヨウコに尋ねると、ヨウコは黙ってうなずくしかなかった。
後日、ヨウコは男性にお礼を言おうと、警察に連絡したが
警察は男性が誰なのかは教えてくれなかった。
再び何度か山に行き、山の周辺に住んでいる住民にも聞いてみたが
誰も男性のことは分からなかった。
それからヨウコは、定期的に山に通うようになった。
ヨウコを救ってくれた男性にいつか会えるかもしれない。
それにあの日見た、白いオオカミの姿をもう一度見たかったのだ。
そして白いオオカミの姿を写真に撮ろうと、カメラを手に入れ、趣味で写真を始めた。
そうしているうちにヨウコはすっかり立ち直っていった。
趣味の写真がきっかけで新しい仕事にも就くことができた。
ヨウコはカメラ越しに白いオオカミの姿を探したが、見つからなかった。
今夜は来るかしら・・・・・・。
ヨウコはカメラを顔から放して、空を見上げた。
空には大きな満月と、無数の星が輝いていた。