ある遠い日の記憶
ある夏の昼下がり。
黒いスーツに身を包んだ白髪の男性が、部屋に入ってきた。
部屋の奥に行き窓を開けると、外からまぶしい日射しと熱風が入ってきた。
老人は窓から離れると、一息つこうとジャケットを脱いで、側にあるテーブルに置くと
ゆっくりと椅子に座った。
テーブルの上には1冊の厚い本が置いてあった。
老人はその本を開くと、そこには数枚の写真が貼られている。
その写真はどれもセピア色に色褪せていて、写っているのは小さな子供や大人達だった。
老人が見ているのは、家族写真を貼ったアルバムだった。
写真を懐かしそうに眺めながら、老人は次々とページをめくっていく。
そして最後のページを見た途端、老人はそこに貼られている写真に目を留めた。
そこには若く、美しい女性が小さく微笑みながら写っている写真だった。
シャーロット・・・・・・。
老人はその写真の女性を寂しげに見つめていた。
そして昔の記憶を思い出すのだった。
数十年前。
広い草原の中を駆け回っている一組の男女の姿があった。
若き老人とシャーロット。
お互い楽しそうに笑いながら、草原を走っている。
大きなつばの広い帽子を被っているシャーロットは、男性から逃げるように走っていたが
後ろから強い風が吹いてきた。
「あっ・・・・・」
帽子を飛ばされたシャーロットが一瞬立ち止まると、追いかけてきた男性が後ろからシャーロットに抱きついてきた。
「捕まえた!・・・・・どうしたの?シャーロット」
「帽子が・・・・風で飛ばされたの」
シャーロットが帽子が飛ばされた方向を向いていると、男性も同じ方向を見ながら
「分かった。帽子を取ってくるから、ここで待ってて」
「私も行くわ」
シャーロットの言葉に男性は首を横に振りながら
「ずっと走り回って疲れてるだろう?すぐ戻ってくるから・・・ここで待ってて」
「分かったわ。ありがとう」
シャーロットがうなづくと、男性は帽子が飛ばされた方へ走り出した。
男性が辺りを見回しながら帽子を探すが、帽子は見当たらなかった。
草原の端の方まで出ると、少し先が大きな崖になっているのが見える。
男性はゆっくりと崖に近づきながら、崖の下を見下ろした。
下は暗闇で底がみえないくらい真っ暗になっている。
もしかしたら帽子はこの崖下に落ちたかもしれない。
男性は顔を上げると、あきらめたようにその場を後にした。
2人の交際は順調だったが
しばらくすると、2人が住むところにも暗い戦争の影が近づいていった。
戦争が始まると、男性はすぐに国の軍により徴兵され、空軍のパイロットになった。
そんな中、突然敵の戦闘機が襲ってきた。
男性はもう1人のパイロットと一緒に戦闘機に乗り込み、空へと飛び立った。
しばらくして後ろの席に座っている男性は窓の外を見た。
戦闘機は見覚えのある場所まで来ていた。
シャーロットが住んでいる家の近くまで来たのが分かると、男性は窓からシャーロットの家を探した。
その時、前から大きな爆発音が聞こえてきた。
「敵の戦闘機だ!攻撃開始するぞ!」
前の席にいるパイロットが叫ぶと、男性は前を向いた。
応戦中、男性がふと窓の外に目をやると、思わず目を見開いた。
目の前には多くの家が大きな火に包まれている。
その中に、シャーロットが住む家があった。
その時だった。
燃えさかる家の中から、シャーロットが飛び出してきたのだ。
「シャーロット!」
シャーロットの姿を見た途端、男性は思わず大声で窓に向かって叫んだ。
「逃げろ!逃げるんだ!シャーロット!」
シャーロットはそのまま逃げだそうとするが、どこかから銃声が聞こえてきた。
銃弾が数発、シャーロットの身体を射抜き、シャーロットはゆっくりとその場に倒れた。
後ろから数人の敵の軍隊がシャーロットを銃で襲ったのだ。
「シャーロット!」
一部始終を見ていた男性は叫びながら何度も窓を叩いた。
「おい!どうしたんだ?」
前にいるパイロットが前を向いたまま聞くと、男性は窓の外を見たまま
「今すぐあの家に行ってくれ!シャーロットを殺した奴等を殺すんだ」
「無理だ。それに地上には我々の陸軍も行っているはずだ。彼らに任せるんだ」
すると男性は前を向き
「そんな・・・・すぐ近くで殺されたんだぞ!陸軍なんて待ってたら・・・」
「空にもまだ敵の戦闘機が何機もいる。戦いはまだ続いてるんだ。終わっていないんだぞ」
「・・・・・・」
男性が納得がいかず黙っていると、パイロットが後ろを向いた。
「お前の言いたいことはよく分かる。オレも数日前、母親が敵に襲われて殺された・・・・」
「母親が・・・・?ならどうしてそんな・・・・・」
「敵に復讐しても、母親は帰ってこない・・・・敵を何人も、何十人も殺しても、死んだ人間は帰ってこないんだ!」
その言葉を聞いたとたん、男性ははっと気が付いたようにパイロットを見た。
何も言えずにいると、パイロットは男性を見つめたまま
「今は敵を倒し、任務を果たすことが優先だ。分かってくれ」
すると前から再び大きな爆発音が聞こえてきた。
パイロットが前を向き、攻撃を始めると、男性は黙ったまま、再び戦闘に入るのだった。
戦争が終わり、男性が住んでいるところにもようやく平穏な日々が戻ってきたが
男性の心はシャーロットを亡くした悲しみでいっぱいだった。
毎日、シャーロットが埋葬されている墓場に行き、シャーロットが眠る墓石の前で
悲しみに打ちひしがれて泣いている日々が続いた。
そんなある日、泣いている男性に声をかけてきた女性がいた。
「あの、すみません・・・・・・」
男性が後ろを振り向くと、そこには黒い服に身を包んだ、1人の女性がいた。
男性が女性を見ていると、女性は続けてこう言った。
「あなたも戦争で誰かを亡くされたんですね・・・・とても大事になさってた方を」
男性は泣きながらうなづいて
「とても大切にしていた人でした・・・・・後ろから銃で撃たれて、それで・・・・」
「そうだったんですか・・・・・」
女性はカバンからハンカチを取り出し、男性にハンカチを差し出した。
ハンカチを差し出され、戸惑っていると、女性はうなづきながら
「よかったらどうぞ使ってください・・・・・私は大丈夫ですから」
「ありがとうございます・・・・」
男性はハンカチを取り、涙を拭いていると、女性はそれを見ながら
「とても大事な方だったんですね・・・・毎日ここに来ているのを見ていて、気になっていました」
「え・・・・?じゃ、あなたも毎日ここに来られているんですか?」
男性が驚いて聞くと、女性はうなづいて
「ええ・・・私もこの戦争で夫を亡くしました。私は田舎の方に避難していたんです。
戦闘中に夫が亡くなったと聞いて・・・・・数週間前に戻ってきたんです」
「そうだったんですか・・・・・・」
男性はハンカチを女性に返そうとするが、途中でその手を止めた。
「あ、このハンカチ・・・・洗って後で返します」
男性の言葉に女性は首を振った。
「いいえ、返さなくても大丈夫です」
「で、でも・・・・」
「いいですから、そのまま持っていて下さい。次またここで会えるかどうかは分かりませんから」
男性はどうすればいいのか戸惑っていたが、女性の言葉に甘えることにした。
「・・・・分かりました。次に会った時にお返しすることにしましょう」
あの出会いがなかったら、私はここにいなかったかもしれない。
今はその妻も、シャーロットがいるところへ行ってしまったが・・・・・。
老人はタバコをふかしながら、窓の外を眺めていた。
するとドアが開き、黒い服を着た、小さい1人の男の子が入ってきた。
「おじいちゃん」
老人が後ろを振り向くと、男の子を見た途端顔をほころばせながら
「おお・・・・どうした?おじいちゃんに何か用か?」
「お母さんがそろそろ行くから、おじいちゃんを呼んで来いって」
「そうか・・・・分かった。準備をしてから行くから、少し待つようにお母さんに言っておいで」
「うん、分かった」
男の子が部屋からいなくなると、老人はタバコの吸い殻をテーブルの灰皿の上に置いた。
男性はアルバムからシャーロットの写真を手に取った。
この写真を持っていると、辛いことを思い出してしまう。
もう持っていない方がいい。
写真を灰皿の前に置き、近くに置いてあるマッチ箱を取ると、箱からマッチ棒を一本取り出し、火をつけた。
そして左手で再び写真を取ると、老人は写真のシャーロットに心の中で別れを告げた。
さよなら、シャーロット・・・・・・。
写真のシャーロットを見つめながら、老人はゆっくりと写真に火を近づけていく。
マッチの火が写真の右端に届こうとした時、老人は突然強い息を火に吹きかけ、火を消した。
燃えカスになったマッチ棒を灰皿に入れると、老人はテーブルに顔を埋め、何度も首を強く振った。
できない・・・・・。
戦争で唯一残ったこの写真を、今更燃やすことなんてできない。
戦争は一番大事な人を奪っていった。
シャーロット・・・・・・。
老人はしばらくの間、声を上げて泣き続けた。
しばらくして老人がテーブルから顔を上げると、部屋のドアがノックされ、外側から女性の声が聞こえてきた。
「父さん。準備はできたの?そろそろ出ないと葬儀の時間に間に合わないわよ」
「あ・・・・・ああ。今から行くよ」
老人がドアに向かって声をかけると、テーブルに置いてある黒いジャケットを手に取った。
「先に外に出ているから、すぐに来て」
「ああ、分かった」
女性の声がしなくなると、老人は持っている写真に目を向けた。
この写真は、戦争の嫌な思い出を思い出してしまう。
でも、それだけじゃない。
戦争前の楽しかった日々も思い出す。
私ももう長くはないだろう。
いい思い出も、悪い思い出も、一緒に残しておこうじゃないか。
老人は写真をアルバムに戻すと、そっとアルバムを閉じた。
そしてジャケットを羽織ると、部屋の外へと歩き始めた。