キャッチボール
ある町の丘の上に、大きな病院がありました。
病院の入口の前で、大きな花束を抱えている小さな女の子の姿を、1人の男の子が離れたところから見ていました。
あの子、退院するんだ。いいな・・・・・・。
車いすに乗っている男の子がうらやましそうに見ていると、後ろから母親がやってきました。
「お待たせ。じゃリハビリ室に行こうか」
男の子は返事をせず、ずっと女の子を見ています。
母親はどうしたんだろうと思い、男の子が見ている方をちらっと見ました。
花束を持った女の子を見ながら、母親は男の子に言いました。
「大丈夫。ユウキの足はきっとよくなるよ。だからリハビリに行こう」
「・・・・・・・」
ユウキは何も言わずに黙っていると、母親は両手で車いすの後ろにあるハンドルを握りました。
そして車いすを前へと動かすと、病院に入って行きました。
リハビリ室に入り、ユウキは先生に見守られながら、歩く練習をしていました。
平行棒に両手をかけて、ユウキは前に行こうと右足を動かそうとした時、右足に激痛が走りました。
「いたっ・・・・・・!」
痛みに耐えきれず、ユウキはその場でしゃがみこんでしまいました。
するとそれを見ていた先生が言いました。
「ユウキくん、痛いだろうけど、今日はもう少しがんばろうか。ゆっくりでいいから少しでも歩こう」
先生の隣で見ていた母親は心配そうな表情でユウキに近づきました。
「大丈夫?ユウキ」
母親がユウキの体を立たせようと、ユウキの体に触れた時、ユウキは母親の手をはねのけました。
「大丈夫じゃない!もうこんなのはいやだ」
「でも、ちゃんと先生の言うことをきかないと、一生歩けなくなるわよ」
「なら、もうずっと車いすのままでいい!もうこんなのはいやだ!」
ユウキはしゃがみこんだまま、その場を動きませんでした。
母親が困った顔でユウキを見ていると、先生がユウキに近づいて言いました。
「ユウキくん、ずっとこのまま歩けないと大好きな野球ができなくなるよ。だから今日はもうちょっとがんばろう」
「・・・・・・」
ユウキが何も言わず黙りこんでいると、先生は母親と顔を見合わせました。
そしてしばらくすると先生はユウキに声をかけました。
「じゃ、今日は右足をマッサージしようか。歩く練習はまた今度にしよう」
ユウキは野球が大好きで、地元の野球チームに入り野球をしていました。
ある試合中、道路に飛び出したボールを追いかけている途中で事故に遭い、この病院に運ばれたのです。
右足を複雑骨折し、手術は成功したのですが、リハビリを始めてから足の具合がなかなか良くなりません。
痛みがなかなか治まらず、ユウキはだんだんリハビリが嫌になっていたのです。
リハビリを終えると、ユウキは病院の外に出ました。
母親が先生と話をしたり、会計をしている間、ユウキはいつも外で母親を待っているのです。
外に広がる景色を見ながら、ユウキは考えていました。
先生の言う通りだ。
このままだとずっと歩けないし、野球もできない。
でも足を動かすと痛いし、どうしたらいいんだろう・・・・。
ユウキはどうすればいいのか分からず、頭を抱えていると
どこからか何かを叩いているような、鈍い音が聞こえてきました。
何だろう、ボールを壁にぶつけているような音がする。
ユウキは両手を車いすの車輪に置くと、音のする方へ進んでいきました。
ユウキが音のする方へ進んでいくと、ユウキと同じくらいの1人の男の子の姿が見えました。
その男の子は左手に野球のグローブをはめて、右手にはボールを持っています。
そして数メートル先の、向かい側にある病院の壁に向かって、ボールを投げました。
壁に当たったボールは男の子の方へ跳ね返ると、男の子はボールをグローブで取りました。
壁打ちしてる。
あの子もどこか悪いのかな。
病院で練習してるなんて。
ユウキが男の子の姿をじっと見ていると、壁に当たったボールを男の子が受け取り損ねました。
そしてユウキの足元までボールが転がってきて止まると、男の子がユウキの方を見ました。
「すみません!」
男の子がユウキに声をかけ、ユウキの方へ近づいてきます。
ユウキはボールを拾おうと右手を伸ばしながら、体が前かがみになった途端、右足に痛みが走りました。
「いたっ・・・・・痛い」
ユウキの動きが痛みで止まっていると、男の子がボールを拾いました。
「大丈夫?」
ユウキがゆっくりと体を起こすと、男の子が話しかけてきました。
ユウキが男の子の顔を見ると、男の子は心配そうな顔でユウキを見ています。
「だ・・・・・大丈夫。君、野球やってるの?」
ユウキは痛みで顔をしかめながら、右足を右手でさすりながら聞きました。
すると男の子はユウキの右足を見ながらうなづきました。
「うん。野球やるの?」
「うん、今は右足が痛くて歩けないけど。前はよく野球の試合をしてたんだ」
「え、そうなんだ!」それを聞いた男の子は嬉しそうに言いました「野球チームに入ってたの?」
「うん。試合中に事故に遭ったんだ。この足だから試合にも出れないし、野球もできないよ」
ユウキがうつむいていると、男の子はユウキの右足を見ながら言いました。
「え、でも病院で治療すれば歩けるんでしょう?よくなるんでしょう?」
「先生はリハビリすれば歩けるようになるって言ってるけど、痛くて歩けないんだ。それにいつ歩けるか分からないし」
それを聞いた男の子は黙っていましたが、しばらくしてこう言いました。
「ねえ、キャッチボールしようよ」
ユウキは顔を上げて、男の子の顔を見ながら
「キャッチボール?でも・・・・・・足が動かせないし」
「大丈夫、ゆっくり投げるから。車いすに届くようにゆっくり投げるから。君は動かなくていいよ」
男の子はユウキから少し離れると、ユウキに向かってゆっくりとボールを投げました。
ユウキは戸惑いながら、なんとかボールを両手で受け取ると、ボールを見つめました。
「ナイスキャッチ!」
男の子の声が聞こえると、ユウキはボールを男の子に投げ返しました。
「君、名前は?」
男の子はグローブでボールを受け取ると、再びユウキにボールを投げました。
「オレはタカシ。君は?」
「オレはユウキ」
「ユウキか。よろしくね」
「うん」
2人は短い会話をしながら、キャッチボールをしていました。
しばらくすると、後ろから声が聞こえてきました。
「タカシ。先生の話が終わったから、今日は帰りましょう」
2人が振り返ると、1人の女性の姿がありました。
「あ、お母さん。すぐ行くよ」
タカシは母親にそう言うと、ユウキの方を見ました。
「じゃ、ユウキまたね」
「うん、またね」
ユウキがタカシに手を振ると、タカシはさらに言いました。
「オレ、毎日病院に来るから、会ったらまたキャッチボールしよう」
「うん、わかった。じゃあね」
タカシが母親のところに行き、母親がユウキに頭を下げると、親子はその場を後にしました。
ユウキが1人になると、後ろから声をかけられました。
「ユウキ、こんなところにいたのか」
「あ、ヒロトさん」ユウキが後ろを振り返ると、背が高く、体格のいい男性がユウキに近づきました。
ヒロトはリハビリ室でよく一緒になり、仲良くしてもらっているのです。
「さっきまで楽しそうな声が聞こえてたけど、お前達だったのか」
「あ、はい。さっきまでキャッチボールしてたんです。ヒロトさんリハビリ終わったんですか?」
「ああ」ヒロトはうなづくと、病院の方を見ながらユウキに聞きました。
「ところで、さっき一緒にキャッチボールしてた男の子知ってるのか?」
ユウキは首を横に振りながら
「いいえ、さっき初めて会ったばかりです。ヒロトさん知ってるんですか?」
「いや、知り合いでも何でもないけど・・・・・父親が病気で最近ここに入院してきたらしい」
「そうなんだ・・・・ヒロトさん何でも知ってるんですね」
「いいや、さっき看護婦さん達が話をしてるのを聞いただけだよ」
ユウキの言葉にヒロトは笑いながら、続けてこう言いました。
「さっき会計が終わったってお前のお母さんがユウキを探してたぞ、一緒に行こう」
ユウキはうなづくと、ヒロトは車いすのハンドルを握り、車いすを前へ動かし始めました。
その日以来、ユウキは病院でタカシと会うたびにキャッチボールをするようになりました。
ユウキにとって、タカシとキャッチボールをするのが楽しみになったのです。
ただ、楽しみであると同時にユウキは複雑な思いを持っていました。
タカシは車いすに乗ったユウキが取りやすいように、いつもボールをゆっくりと投げてくれるのです。
タカシがユウキに気配りをしてくれているのが、ユウキにとってだんだんと辛くなってきたのです。
オレの足が動かせるようになれば、タカシと思いきりキャッチボールができるのに。
そうすればタカシも気を使わなくてすむのに・・・・・・。
どうすればオレの足は早くよくなるんだろう。
ユウキはそう思いながらも、どうすればいいのか自分がよく分かっていました。
まだ足は痛いけど、タカシとキャッチボールをしたい。
2人で思いきり走り回りながら野球をしたい。
ユウキはある決断をしました。
それからというもの、ユウキはリハビリを積極的にやるようになりました。
右足を動かすと、まだ痛みがありましたが、ユウキは痛みを我慢しながらもリハビリを続けたのです。
その変わりように母親はもちろん、先生や周りの人達が驚くほどでした。
リハビリを続けた結果、ユウキの右足はだんだんとよくなっていきました。
ある日、先生の診断でもう車いすに乗らなくていいと言われたユウキは嬉しくて仕方がありませんでした。
右足はもう歩いても痛くないし、思いきり体を動かせるんだ。
これでタカシと一緒にキャッチボールができる。
ユウキはタカシといつもキャッチボールをしている場所に走って行きました。
足が治ったことを早くタカシに言いたかったのです。
病院の外に出て、タカシがいつもいる場所に来ました。
しかし、いつもいるはずのタカシの姿がありません。
「タカシ!」
ユウキが辺りを見回しながらタカシの姿を探しますが、タカシは全く見当たりません。
「タカシ!どこにいるんだ?タカシ!」
ユウキが何度タカシの名前を呼んでも、返事はありません。
しばらくするとヒロトがやってきました。
「ユウキ」
その声にユウキが思わず振り返ると、ヒロトの姿を見てがっかりしました。
「ヒロトさんか・・・・・」
「タカシくんを探してるのか?」
ヒロトの問いにユウキは黙ってうなづくと、ヒロトはなんとも言えない複雑な表情で言いました。
「ヒロトくんなら、もうここにはいないよ」
それを聞いたユウキは驚きました。
「どうして?どうしてタカシがいないって知ってるの?」
「今日になって父親の手術ができる病院が見つかったって、今朝廊下を歩いてる時に聞いたんだ。
先生とタカシくんの母親が話をしながら、転院の手続きの話をしているのをね」
「え・・・・・・それで、どこの病院に行ったんですか?」
「確か、隣町の総合病院だったかな・・・・・・手術すればすぐ退院できるだろうって話だったよ」
それを聞いたユウキはがっかりと肩を落としました。
落ち込んでいるユウキにヒロトはズボンのポケットからボールを出しました。
「早く足を治して、タカシくんとキャッチボールしたかったんだろう?リハビリすごく頑張ってたもんな」
ヒロトはボールをユウキに差し出すと、ユウキは黙ったままうなづきました。
ユウキがボールを見ていると、ヒロトは左手でユウキの頭を撫でながら
「落ち込むことはないよ。機会があればタカシくんにはまた会えるさ。今日はオレと一緒にキャッチボールしようか」
「・・・・うん」
ユウキがボールを取ると、2人はその場でキャッチボールを始めるのでした。
それからユウキがリハビリを終えて、数ヶ月が経ちました。
ユウキは野球チームの練習試合に参加するため、隣町にある野球場に来ました。
ユウキがチームメイトとキャッチボールをしていると、後ろからユニホームを着た子供達がやってきました。
ユウキがボールを投げて、やってきている子供達を見ると、その中に見覚えのある子供がいたのです。
「あれは・・・・・タカシだ!」
ユウキはタカシがいる方へ走り出しました。
「タカシ!」
大声で名前を呼ばれたタカシは声のする方を向くと、ユウキが走ってきている姿が見えました。
「ユウキ!」
ユウキがタカシの側まで来て止まると、タカシは驚いたような表情でユウキを見ました。
「ユウキ、どうしてここに?もしかして隣町のチームなの?」
ユウキは驚いているタカシを見ながら笑顔で
「タカシこそ、隣町のチームだったんだ。会えてうれしいよ!」
「オレも。また会えてうれしいよ!」
タカシも嬉しそうに笑いながら、ユウキの姿を見て言いました。
「ユウキ、足すっかりよくなったんだ。よかったね!」
「うん。そういえばお父さんは?病気はよくなったの?」
「うん!」タカシは大きくうなづきました。「後から応援に来るって!」
2人で話をしていると少し離れたところから大声が聞こえてきました。
「おい、そろそろ試合開始だ!準備してホームに集合!」
「あ、はい!」
2人は揃って答えると、お互いの顔を見ながら、笑顔でホームに向かって走り出すのでした。