記憶のかけら 1
これは、遥か遠い未来のお話。
ある町のある場所に、大きな家がありました。
その家はところどころ壁が崩れていて、窓ガラスも全部割れています。
家の周辺は他に建物はなく、草木も全く生えていません。
時々強い風が吹くと、砂ぼこりが舞っています。
そんな廃墟になっている家の一室に、ノアという男の子が住んでいました。
灯りのない薄暗い部屋で、ノアは1人で壁に映し出されている映像を見ていました。
映像には遊園地なのか、乗り物に乗っている子供達が楽しそうに笑っています。
子供達のすぐ側には両親なのか、笑いながら子供達を見ています。
ノアはしばらく映像を見ていましたが、右手に持っているコントローラーのあるボタンを押しました。
壁に映っていた映像が消えると、男の子はコントローラーを床に置きました。
ノアは映像を見ているのが嫌になったのです。
ノアはこの廃墟に1人で住んでいました。
父親と一緒に住んでいましたが、数年前にその父親が亡くなってしまったのです。
母親は小さい頃に亡くなったと父親から聞かされているので、いません。
父親が亡くなった後、すぐ親戚に引き取られて親戚の家に住んでいましたが、うまくいかず
親戚中の家を次々とたらい回しにされました。
全ての親戚の家を回りましたが、全てうまくいきませんでした。
親戚の人達はノアを邪魔者扱いし、こき使ったり、叩いたりしてひどい扱いをしたのです。
ノアは嫌になり、逃げだしてから親戚の人達は全くノアを相手にしなくなりました。
ノアは住んでいた廃墟に戻ってから、1人で何もかもしなくてはなりませんでした。
お腹が空いたら食べるものを探しにどこかへ出かけ、お店の裏側に置いてある食べカスや道に落ちている食べ物を拾って
家に持って帰って食べていました。
またある時は、家の前に食べ物が置いてあったりする事もありました。
もちろん、いつも食べ物があるとは限りません。
食べ物が見つからなかった日は何も食べず、家の中でできるだけ動かず眠る時もありました。
ノアはいつも物足りなさを感じていました。
どこに行くにも、食べるにもお金がないと何もできない。
何をするにもお金がいるのです。
どうして僕にはお父さんもお母さんもいないんだろう。
他のみんなはお父さんやお母さんがいて、楽しそうなのに。
僕には誰もいない。ずっと1人。
僕はもうずっと1人なのかな・・・・・・。
そう思うと、ノアはとても悲しくなりました。
ノアはズボンのポケットから1枚の写真を出すと、しばらく黙ったままそれを見つめていました。
それは父親からもらった母親の写真でした。
ノアが生まれた時に髪を後ろでひとつに束ね、赤ちゃんを両手で抱きながら微笑んでいる母親の姿。
母親の写真はそれ以外にはなく、それが母親の顔を知る唯一の写真だったのです。
もしお母さんが今生きていたら、どんな生活をしていたんだろう。
一緒に遊んだり、話をしたり、おいしいものを食べたり・・・・。
他のみんなと同じように楽しいんだろうな。
でも今は誰もいない。ひとりぼっちだ。
ノアは写真をズボンのポケットに戻すと、さらに悲しくなりました。
床に寝そべって天井を見ていると、お腹がグルグルと鳴りました。
おなかすいた・・・・・・。
ノアはゆっくり立ち上がると、どこかへと歩き出しました。
ノアは階段を降りると、部屋の灯りがつきました。
1階や他の部屋は照明が壊れていて灯りがつきませんが、この地下の部屋だけはなぜか灯りや電気が使えるのです。
地下の部屋は父親が使っていた部屋でした。
部屋には大きなスクリーンや椅子、それにいろんなものが置いてありました。
ノアは部屋の中央にある机の前まで行くと、机の上にある茶色の包み紙を取りました。
ノアが包み紙を広げると、薄く切ったパンが2切れほどありました。
昨日の夜、家の前に置いてあったのを持ってきたのです。
ノアはパンを1切れ右手で取ると、そのまま口に入れました。
2切れあったパンはすぐになくなってしまいました。
それでもノアの空腹は満たされませんでした。
パンだけじゃおなかいっぱいにならない。
また夜になったら外に行って、食べ物を探してこなきゃ・・・・・・。
ノアは茶色の包み紙を両手で丸めると、机の上に置きました。
毎日食べ物を探してくるなんてもう嫌だ。めんどくさい。
昨日みたいに、いつも誰かがお家の前に食べ物を持ってきてくれたらいいのに。
でも、どうしておなかが空くんだろう?
おなかが空かなきゃ食べなくてもいのに・・・・・・・。
どうすればいいんだろう?
ノアがそう思っていると、突然どこかからアラームのような音が聞こえてきました。
音が聞こえた方を向くと、床に散乱しているものの中から、赤い光が点灯しているのが見えました。
ノアは近づいて、点灯しているものを両手で取りました。
それは白い円盤で、真ん中に赤いランプのような光がついたり消えたりしています。
見ただけでは何なのか全く分かりませんでした。
ノアがふと床を見ると、そこには1枚の紙がありました。
それを拾って見てみると、手書きの文字がたくさん書いてありました。
文字を見ながら下の方を見ると、写真がありました。
ノアが持っている円盤と、大きなメガネの写真でした。
これ、お父さんが作ってたものだ。
円盤とメガネ・・・・・メガネはどこにあるんだろう?
ノアはメガネがないか辺りを見回しました。
しばらくするとノアは1階の部屋に戻りました。
ノアの側には円盤とメガネが床に置かれています。
ノアは手書きの文字をずっと見つめていました。
ノアの父親は発明家でした。
いろんなものを作っては、家で使ったり、外で使ってみたりして周りの人達に見せていたのです。
父親は作ったものをいつもノアに使わせたりして一緒に楽しんでいたのです。
ノアはそんな父親が大好きだったのです。
ノアは紙を床に置くと、メガネを取りました。
紙に何が書かれているのか、ノアには正直よく分かりませんでしたが
紙に書かれていることをやってみようと思いました。
ノアはメガネをかけると、次に円盤を取りました。
そして赤く点滅しているランプがついている中央のボタンを押しました。
しばらく何も起こりませんでしたが、円盤の先から数メートル先の壁に向かって光が出てきました。
ノアは壁を見ると、壁にはオレンジがひとつ、テーブルの上に乗っている映像が投影されました。
オレンジだ。お父さんが大好きだったオレンジ。
こうして見ているととてもおいしそうだなあ。
ノアがそう思った時でした。
どこからかふわりとみずみずしい柑橘系のオレンジの香りがしてきたのです。
何だろう、オレンジのいい匂いがする。
ノアはオレンジがあるのか辺りを見回しますが、まわりにはオレンジはひとつもありません。
オレンジがないのに、どうして匂いだけするんだろう。
ノアがそう思っているうちに、壁に映っているオレンジの映像が消えました。
それと同時にオレンジの香りも消えてしまいました。
オレンジからリンゴに映像が変わると、今度はリンゴの香りがしてきました。
今度はリンゴの匂いがする。壁に映ってる果物と同じだ。
もしかしたら壁に映っている食べ物の匂いがしているのかもしれない。
ノアが気がつくと、また映像が切り替わりました。
今度は食べ物ではなく、海岸の映像が映し出されました。
誰もいない、穏やかな波の音が聞こえてくると、ノアは何か気がついたようにはっとした表情を見せました。
なんだろう、音は聞こえてくるけど、なんだかさわやかな風が吹いてきてる。
風が気持ちいい、まるで海にいるみたいだ。
しばらくするとまた映像が別のものに切り替わりました。
映像が別のものに変わるたび、ノアはまるでその場にいるかのような体験をしたのです。
最初は何が起こっているのか分かりませんでしたが、だんだんと楽しめるようになりました。
映像が終わって画面が暗くなると、円盤のランプが消えていました。
ノアはメガネを取ると、辺りは元の薄暗い部屋に戻っていました。
ノアは円盤を見ながら思いました。
お父さんは実際に行かなくても、体験できるような機械を作っていたんだ。
これに入っている映像をこのメガネで見れば、いろんな体験ができる。
ただ、食べ物の映像を食べることはできないけど・・・・・・。
でもこれがあれば、いろんなことができるかもしれない。
でも、映像を撮りに行かないといろんな体験ができない。
撮りに行くには外に出なきゃいけないし、どこかに行くにもお金がかかるし
どうすればいいんだろう。
行き詰ったノアは床に置いてある紙を取りました。
再び手書きの文字を見ていると、ある文字に目が留まりました。
え・・・・・?
映像じゃなくても人の記憶を円盤に取り込めば、円盤が映像にしてくれるの?
でもどうやって?
ノアは文字を読み進めていきました。
そうしていくうちに、あることを思いついたのです。
外に出て、歩いている人の記憶を取り込んでそれを映像にすれば・・・・・・。
そうすればどこかに出かけなくても楽しめるかもしれない。
もう少し読んでからやってみよう。
しばらくして廃墟の家の壊れた窓から、円盤を抱えたノアが出てきました。
人がいないか辺りを見回しながら、外へと出て行くのでした。
しばらく道を歩いていると、反対側から歩いてくる女の子に出会いました。
ノアと同じ歳くらいの女の子は、右手に丸いドーナツを持って食べながら歩いています。
女の子が美味しそうにドーナツを食べている姿を見ながら、ノアは思いました。
あのドーナツ、おいしそうだなあ。
どんな味がするんだろう。
女の子をうらやましく思っていると、持っている円盤を見て思いつきました。
そうだ、この円盤を飛ばしてみればいいんだ。
そうすればあのドーナツの匂いくらい分かるかもしれない。
ノアはさっそく試そうと、円盤を空に飛ばしました。
円盤は女の子の後ろまで近づくと、前方の中央から黄色い光を放ちました。
女の子の頭が黄色い光に包まれると、女の子はその場で立ち止まりました。
しばらくして光が消えると、円盤はノアのところへ戻って行きました。
女の子は何が起こったのか分からず、しばらくその場を動きませんでしたが、何もなかったかのように
再び歩き始めました。
円盤が戻ってくると、ノアは円盤を両手でつかみました。
そしてさっそく確認しようと左手をズボンのポケットに入れ、何かを出そうとしましたが
途中ではっと思い出しました。
「しまった、メガネを持ってくるのを忘れた・・・・」
ノアはメガネを家に置いてきてしまったのです。
「家に帰った時に確認すればいいか。他の人のもどんどん取り込んでみよう」
ノアは再び歩き始めました。
こうしてノアは、道で人に会うたびに円盤を飛ばし、記憶を取り込んでいきました。
数人の記憶を取り込んだところで、ノアは家に帰ることにしました。
家が数メートル先に見えたところで、ノアは急に立ち止まりました。
玄関前に見覚えのある、太目で地味な茶色のワンピース姿の女性の姿を見たからです。
あのおばさん、また家に来てる。しつこいなあ。
あの家には誰もいないことになってるから、来なくてもいいはずなのに。
それとも親戚の誰かが、僕がいるって言ったのかな。
あのおばさんに見つかったら施設に入れられる、見つからないようにしないと。
ノアは見つからないように、玄関の前にいる女性を見ながら再び歩き始めました。
何度も玄関の方を見ながら歩いていましたが、しばらくすると家の裏側へと走り出しました。
しばらくして家の裏側のガラスが割れた窓から中に入ると、ノアは玄関へと行ってみました。
玄関近くの窓から姿を見られないように恐る恐る外を見てみると、女性の姿はありませんでした。
ほっとしたノアは、さっそく円盤に取り込んだ記憶の映像を見ることにしました。
薄暗い部屋の中、メガネをかけて円盤の中央のボタンを押すと、壁を見ました。
しばらくすると壁には映像が映し出されました。
女の子が美味しそうに食べていたドーナツが出てくると、それと同時に甘い匂いがしてきました。
甘いシナモンの香りがしてくると、ノアは思わず目をつぶりました。
あの子、シナモンドーナツを食べてたんだ。すごくいい匂いがする・・・・・。
食べたいな、食べられないのがすごく残念だけど。
そう思っているうちに、ドーナツの匂いがしなくなりました。
ノアが目を開けて壁を見ると、映像は別のものに変わっていました。
しばらくして映像がなくなると、ノアは深いため息をつきました。
最初のドーナツの映像以外、ノアにとってあまり面白い内容ではなかったのです。
でも、人の記憶を取り込んで映像にできることは確認できました。
今日はあまり人に会わなかったから、たまたまつまらないものばかりだったんだ。
また明日から出かけて、いろんな人の記憶を取ってみよう。
ノアは円盤の電源を切ると、円盤を持って部屋を後にするのでした。
それから、数日経った昼下がり。
町のある建物の一室の玄関のドアベルが部屋中に鳴り響きました。
玄関の近くにいた男の子が部屋の奥に向かって大声で言いました。
「お父さん!誰か来たよ!」
「はいはい、今開けますよ」
奥の部屋から1人の男性が出てきました。
そして廊下にいる男の子に声をかけました。
「アダム、お客さんが来たかもしれないから部屋に入っていなさい」
「はーい」
アダムはそう言うと、つまらなさそうにすぐ近くのドアを開け、部屋に入って行きました。
男性はアダムが部屋に入るのを見届けると、玄関のドア前まで行きました。
そしてドアを開けると、白衣を着た1人の年配の男性の姿がありました。
「おや、病院の院長さんではないですか。どうしました?」
「どうしました?じゃない。用があるからこうして来たんだ、探偵のエリックさん」
「わざわざお越しいただかなくても、ネットから呼び出していただければ・・・・」
「そうしようとネットで相談しようとしたんだが、そっちの受付が昼休み中でつながらなかったから来たんだ」
病院の院長が困った顔をしながらエリックに話しかけると、エリックは院長の様子を伺いながら
「・・・それは失礼しました。どうやらとても困っているようですね。どうぞ中へ入ってください」
「ああ、あまり時間はないが、あがらせてもらうよ」
院長が部屋の中に入ると、エリックはドアを閉めました。
しばらくしてエリックは椅子に座ると、向かいにいる院長に話しかけました。
「ところで、用件はどんな・・・・・」
「時間がないので手短に話すが、最近急に同じ症状で来る患者が多くて困っている」
「同じ症状で?それは流行り病とかではないんですか?」
「風邪やインフルエンザとかの感染症じゃない。認知症というか記憶喪失というか・・・・・
ここ数日、部分的に記憶がなくなったとか、自分が誰なのか分からないという患者が来るようになった」
「記憶がなくなった?」
「数人なら認知症を発症したのだろうと思うのだが、数十人だ。それに検査をしてみても、脳にこれといった
原因が見当たらない。医者としては原因不明の認知症だなんてとても考えられないし、患者にもそんなことを言えない」
「医者としてはお手上げということですか。それで、他の病院でも同じような症状の患者は・・・・」
「いいや」院長は首を振って、続けて言いました。
「うちの病院だけだ。他の病院に問い合わせたが、そんな患者は来ていないと言っていた」
「そうですか。記憶がなくなる前、何をしていたかは患者には聞いてますか?」
エリックの質問に、院長は考え込みながら
「・・・数人から聞くことはできたんだが、出かけていて、途中で記憶がなくなったと言っている。
記憶喪失状態の患者の家族からも、家を出る時は何ともなかったが、出かけている間に何かあったのか
警察から連絡があって、行って見たら記憶喪失になっていたと言っていた」
「つまり、外で何かあったということですね・・・・・」
「警察にも相談して、動いてもらってはいるが・・・・・原因が何なのか、そちらでも調べてもらえないだろうか?」
エリックはテーブルに置いてあるカップを取ると、そのままコーヒーをすすりました。
そしてカップをテーブルに戻すと、院長にこう言いました。
「この町だけ患者がいるとすると、感染症ではなさそうですね・・・・何があるのかとても興味深い。
警察も動いているとは思いますが、私の方でも調べてみましょう」
「本当ですか?ありがとうございます」
院長が部屋を出て行った後、エリックは窓の外の景色を眺めながら考えていました。
この町だけで起きている記憶喪失案件か。
これは何かありそうだな・・・・・・・。
とりあえず、まずは外に出てみるか。
エリックは外に出ようと、部屋を後にするのでした。
エリックが玄関を出た後、アダムが部屋から出て来ました。
エリックと院長が話をしている間、廊下で話を聞いていたのです。
出かけている間に記憶喪失になるなんて。
それもこの町だけで何人も・・・・?
一体何が起こってるんだろう。
お父さんはきっと病院に行って、患者に話を聞きに行ったんだ。
警察にも行って、話を聞いてくるかもしれない。
わざわざ行かなくても、ネットから聞けばいいのに。
僕の方でも調べてみよう。
アダムは自分の部屋に戻ると、机の側の椅子に座りました。
机に置いてあるPCの画面を開けると、両手を動かしながら画面を見続けるのでした。