理想の国(ユートピア)
薄暗く分厚い雲が一面に広がっている空。
木々も建物も何もない道に、強い風が音を立てて吹きつけ
誰もいない道には砂ぼこりが一面に舞っている。
ここはある荒れ果てた村。
昔は緑があふれ、平和な村だったが、十数年にも渡る戦争によって多くの人達が亡くなった。
戦争によって多くの人を失った村はあっという間にさびれていった。
ある晴れた風の強い午後。
砂ぼこりが舞う中、1人の少年が地面に倒れ込んだ。
少年は前を見ると、少し離れたところに4人の少年達の姿があった。
「どうしたアルマス。もうかかってこないのか?」
少年達の一番前にいる、体格のいい太目の少年が倒れているアルマスに声をかけた。
「マルクス・・・・・・・!」
アルマスがマルクスを睨みつけながらゆっくりと立ち上がると、マルクスは側にいる少年達に大声で言った。
「おい、あいつまだやる気だ。ボコボコにしてこい!」
3人の少年達がアルマスのところへ走り出すと、マルクスはその場を動かず、様子を見ていた。
アルマスはやって来た3人の少年達になんとか対応しようとするが、すぐに地面に倒されてしまった。
3人から容赦なく殴られるアルマス。
しばらくして3人がその場を去ると、アルマスはふらふらになりながらも、ゆっくりと立ち上がった。
それを見たマルクスは再び3人に言った。
「おい、まだ動いてるじゃないか!今度こそ動かなくなるまでやるんだ!」
そして3人が再びアルマスのところへ走ろうとした時、後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。
「こら!お前達そこで何をしている!」
「やばい、逃げるぞ!」
後ろから1人の男性が走って来るのを見たマルクスが逃げ出すと、あとの3人もその場から逃げ出した。
「大丈夫か?」
短髪で白髪の男性がアルマスのところまで駆け寄ると、アルマスはゆっくりとうなづいた。
「ラルフおじさん・・・・・・」
「大丈夫か・・・・・ケガをしてるじゃないか!」ラルフはアルマスの右頬の擦り傷に気がついた。
そして擦り傷からかすかな血が出ているのを見ると、左手を伸ばしアルマスの右頬に触れながら言った。
「店に行こう。ケガの手当をしなきゃいかん」
しばらくしてラルフの酒場に入ったアルマスは、店の奥の部屋でケガの手当を受けていた。
「顔だけじゃなく、足までケガしてるじゃないか。大丈夫か?」
ラルフがアルマスの両足の擦り傷を見ていると、アルマスはうなづきながら
「うん、大丈夫だよ。奴等にしょっちゅうやられてるから」
「でも今日はまたひどいケガだ。1人に3人とは卑怯な奴等だ・・・・とんだ悪ガキどもだな」
「・・・・・・・」
「どうしていつもあんな奴等の相手をするんだ?いつもひどくやられているじゃないか」
「僕だって相手にしてるわけじゃないよ」アルマスは首を振った「あいつらからいつもケンカをしてくるんだ」
「それにしてもひどい連中だな。昔はこんなにひどい事をする連中なんていなかったのに」
ラルフはアルマスの右足の擦り傷に薬をつけ始めた。
薬が足に塗られた途端、アルマスは薬が染みたのか体をビクっとさせながら
「いたっ・・・・・・染みて痛いよ、おじさん」
「このくらい我慢しろ、男の子だろ」ラルフは薬を塗りながら話を続けた。
「昔はここの人達はみんな仲が良くて、誰かをいじめることなんてなかった。平和でいつも楽しかった。
それが戦争で全て変わってしまった。今では人はあまりいないし、昔みたいにお互いを気遣うことなんてしない。
自分さえよければいいという世界になってしまった」
「・・・・・・・」
「お前のお父さんも戦争がなければ生きていたのに。戦争が全てを変えてしまった」
「・・・・・・・」
アルマスは亡くなった父親のことを思い出していた。
父親は戦争で敵の兵士がこの村に入った時に戦い、銃に撃たれて亡くなったのだ。
ラルフはアルマスの傷の手当を終えると、自分が言ったことに気がついて謝った。
「これで終わった・・・・・辛いことを思い出させてしまったな。ごめんよアルマス」
「ううん、大丈夫。ありがとう。気にしないでおじさん」
アルマスは椅子から立ち上がると、ラルフにお礼を言ってその場を後にした。
夜になり、家に帰ったアルマスは母親パウラと食事をしていた。
アルマスがパウラと向かい合い、スープを飲んでいるとパウラがアルマスの顔を見ている。
「アルマス、またケンカでもしたの?」
「どうして知ってるの?母さん」
「顔に傷があるからよ。それにさっきここに入る時に、足にも傷があったわ」
「・・・・・・」
アルマスが黙ってスープを飲んでいると、パウラはパンを小さくちぎりながら
「ケンカの相手は?また同じ相手なの?1人じゃなさそうね」
「・・・・・・」
「どうしてケンカばかりするの?相手にしなければいいことでしょう?」
「僕は相手にしてないけど、向こうからケンカをしてくるんだ」
パウラの追求に嫌になったアルマスは椅子から立ち上がった。
そして目の前にある皿の上にあるパンをひとつ取ると
「ごちそうさま」と部屋を出て行った。
パンを持ったまま家を出たアルマスは、辺りを見回すと小走りで走り出した。
そして灯りが消えている1軒の家の中に入って行った。
真っ暗な家の中に入り、ズボンからマッチの箱を取り出すと、アルマスは箱から1本のマッチ棒を出した。
そして火をつけて辺りが明るくなると、後ろでかすかな声が聞こえてきた。
アルマスは後ろを振り向いてマッチの火を向けると、遠くに小さな1匹の猫の姿が見えた。
「・・・・・そこにいたんだ。今そっちに行くからね」
アルマスは猫がいるところへ行き、近くに置いてあるランプの灯りを点けた。
ランプの周りが明るくなり、近くには1匹の茶色い子猫が床に横たわっている。
アルマスは子猫の側に行くと、持っているパンを小さくちぎった。
「お腹空いただろう・・・・パンは食べるかな」
アルマスはちぎったパンを子猫に食べさせようと、パンを子猫の口もとに近づけた。
子猫はアルマスの手元にあるパンを見るが、食べようとしなかった。
「パンは食べないのか・・・・・やっぱりミルクじゃないとダメなんだ」
アルマスはがっかりしながら、ちぎったパンを自分の口に入れた。
「ごめんよ。朝でしかミルクは持ってこれないんだ。お母さんに黙って持ってこれるのは朝だけだから」
すると子猫はそれに答えるかのように、ミイミイと小さく泣き始めた。
「水を持ってくるから、そこで待ってるんだよ」
アルマスはその場を離れると、持っている残りのパンを口に入れた。
しばらくしてアルマスが水が入った小皿を持って戻ってきた。
小皿を子猫の前に置くと、子猫は小皿の水を飲み始めた。
「ノドも乾いてただろう。ごめんよ、食べ物を持ってこれなくて」
アルマスは子猫の頭に右手をやると、ゆっくりと頭を撫でた。
アルマスはこの空き家で子猫の面倒を見ていた。
子猫が道を歩いていて後ろから走ってきた車とぶつかったのを偶然見たアルマスは、この空き家に子猫を連れてきたのだ。
子猫は生きていたが、その事故で後ろの右足をケガしていた。
ケガの手当をし、エサの世話をするようになったアルマスに子猫はすっかりなついていた。
子猫の頭を撫でながら、アルマスはつぶやいた。
「お前といる時が一番落ち着くな・・・・・・」
すると子猫が顔を上げ、アルマスの方を向いた。
アルマスは子猫の頭を撫で続けながら
「でも、ずっとここにはいられないよ。見つかったらここから追い出されてしまうから」
すると子猫はミイミイと泣きながら、アルマスを見つめている。
アルマスは両手で子猫を抱き上げると、そのまま子猫を抱きしめた。
「・・・・このままお前と一緒にどこかへ行きたいな。学校に行けばマルクス達にいじめられるし、お父さんはいないし。
ずっとここにいてもいいことなんてない。村の外に出て行けば、ここより楽しくていろんなことができるだろうな」
子猫が黙っていると、アルマスは子猫の顔を見ながらこう言った。
「そういえば、まだ名前をつけてなかったな・・・・・ホーパスにしょう。お前は僕の友達で、唯一の希望だ」
それから数日後のある日。
授業が終わり学校の廊下をアルマスが歩いていると、少し先に1人の長髪の女の子が何かを探しているのか、しゃがんで下をじっと見ている。
「レベッカ、何を探してるの?」
アルマスが声をかけると、レベッカが顔を上げてアルマスを見た。
「あ、アルマス。コンタクトを落としちゃって・・・・・・一緒に探してくれる?」
「いいよ」
アルマスが床を見ると、すぐ近くに小さくて丸い、透明なガラスのようなものが光るのが見えた。
アルマスがしゃがんでそれを拾い上げると、コンタクトレンズだった。
「落としたものはこれ?」
アルマスがレベッカにコンタクトレンズを見せると、レベッカをそれを見て顔がほころんだ。
「そう、それ!どこに落ちてたの?」
「すぐそこにあったけど・・・・・・」
「え・・・・・・ごめんなさい。そこはさっき探したんだけど」
それを聞いたレベッカは戸惑いながらアルマスの右手にあるコンタクトレンズを取った。
「目がよく見えないんだからしょうがないよ。見つかってよかったね」
「ありがとう」
レベッカはアルマスにお礼を言うと、ゆっくりとその場を後にした。
アルマスが廊下を歩きだすと、今度は後ろから大声が聞こえてきた。
「アルマス!」
アルマスが後ろを振り返すと、マルクスとその仲間が走ってくるのが見えた。
マルクスの顔を見ると、機嫌が悪いのかアルマスをギロッと睨みつけているような顔で近づいてきている。
マルクス機嫌が悪そうだ・・・・・逃げなきゃ。
アルマスは前を向くと、マルクス達から逃げようと走り出した。
学校の校舎を出たところで、アルマスはマルクス達に捕まってしまった。
校舎の裏側まで連れてこられたアルマスは、マルクスに顔を殴られるとその場に倒れ込んだ。
マルクスは地面に倒れたアルマスを見ながら怒鳴りつけた。
「お前、さっき廊下で何してたんだ?」
「廊下・・・・?」
アルマスが戸惑っていると、マルクスの側にいる男の子が
「そうだ、廊下でさっきレベッカと話をしてただろう?」
「レベッカ?・・・・・・・レベッカのこと?僕はただ一緒に探し物をしてただけだけど」
「探し物だって?」
「ああ、コンタクトレンズを落としたから、一緒に探してくれって・・・・・・」
「嘘つけ!」マルクスの怒鳴り声が再び聞こえてきた「そんな事言って、オレが信じると思ってるのか?」
「僕が嘘を言ってると思うんだったら、レベッカに聞いてみればいいじゃないか」
「うっ・・・・・・・」
マルクスが黙っていると、すぐ側でこんな小声が聞こえてきた。
「それはできないな。マルクスはレベッカに避けられてるから」
「マルクスは気に入ってるけど、レベッカはマルクスの事嫌ってるから・・・・・・・」
それを聞いたマルクスは声がした方をじろっと睨みつけた。
マルクスの側にいる男の子がビクっとしながら黙っていると、マルクスはアルマスの方を向いた。
「どうしてお前みたいなやつが女の子にもてるんだ?面白くない!」
マルクスがアルマスに怒鳴りつけると、側にいる男の子達に言った。
「オレの気が済むまでこいつをボコボコにしろ!」
マルクスの命令で3人の男の子が出てくると、アルマスに襲い掛かってきた。
アルマスは3人に対してなんとか応戦するが、すぐに地面に倒されてしまった。
3人に殴られ続け、意識がだんだんと遠のいていく中、マルクスの声が聞こえてきた。
「お前の大事なものを奪ってやる・・・・・・」
アルマスは何かを言おうと口を開くが、そのまま気を失った。
その夜。
夕食後、アルマスはいつもの通りに空き家に入った。
そして子猫がいそうな場所に行き、辺りを見回すが、子猫の姿が見当たらない。
「おかしいな・・・・・いつもこの辺りにいるはずなのに」
アルマスは近くに置いてあるランプをつけ、ランプを右手に持つと、再び辺りをランプの灯りで照らしてみるが
子猫の姿は見当たらない。
「せっかくミルクを持ってきたのに。どこにいるんだろう」
アルマスは左手に持っているミルクが入った瓶を地面に置くと、ランプを持ったまま子猫を探しにその場を後にした。
しばらくして、空き家の一番奥の部屋に入ると、アルマスはランプを奥の方へ向けた。
ランプの灯りが子猫の姿を照らした時、アルマスは子猫のあまりにもの姿に驚いた。
子猫の身体が赤いものですっかり染まり、横たわっているのである。
「・・・・・ホーパス!」
アルマスが叫ぶと、慌てて奥の方へと走り出した。
「ホーパス、ホーパス!」
身体が血で染まっている子猫の名前を呼びながら、アルマスは地面にランプを置いた。
そして子猫を抱き上げると、子猫は両目を閉じてぐったりとしている。
「一体、誰がこんなひどいことを・・・・・・!」
心に怒りが沸き上がりながら、アルマスは辺りを見回した。
すると、後ろからかすかな物音が聞こえた。
アルマスが後ろを振り返ると、昼間マルクスの側にいた男の子の連中が逃げて行く姿が見える。
あいつは・・・・・昼間いたマルクスの仲間だ!
マルクスがホーパスを・・・・・・。
アルマスはマルクスが子猫を殺したと察すると、ますます怒りがこみ上げてきた。
僕の大事なホーパスを殺すなんて・・・・・・・。
マルクス、許さない。絶対に許せない!
するとアルマスの両手の中で、かすかな動きを感じた。
アルマスが気がついて両手を見ると、子猫の身体がかすかに震えているのを感じた。
「ホーパス!よかった・・・・・・まだ生きてる」
アルマスが子猫を見ていると、後ろから声が聞こえてきた。
「こんなところで何をしてるんだ?アルマス」
聞き慣れた声に、アルマスは後ろを振り向くと、マルクスとその仲間の4人の姿があった。
「マルクス・・・・・・!どうしてこの猫を殺そうとしたんだ!」
マルクスの顔を見た途端、アルマスは怒りをあらわにしながら怒鳴り声を上げた。
マルクスはまんざらでもない表情で
「ふん、そんな子猫一匹が死んだぐらいでそんなに怒ってるとはな。しかも野良猫だろう?」
「マルクス・・・・・・!」
「オレの大事なレベッカに手を出した罰だ」
「オレの大事なレベッカだって?レベッカに嫌われているクセに」
「うっ・・・・・・・いつの間にオレに対して生意気な口をきくようになったんだ?許せないぞ」
「僕だってお前を許さない!子猫を殺そうとするなんて最低だ」
アルマスがマルクスに大声で言い放った時、両手の中の子猫の身体がビクっと動いた。
マルクスはそれを見逃さなかった。
「おい、その猫まだ生きてるじゃないか・・・・・殺せって言ったのに」
マルクスの側にいる仲間が黙っていると、マルクスは近くに落ちている鉄パイプを拾い上げた。
そしてアルマスを見ると、不気味な笑みを浮かべながら
「オレは本当にお前が嫌いだ。その猫と一緒に殺してやる。みんな、やるんだ!」
アルマスの掛け声が終わると同時に、アルマスは子猫を抱えたまま逃げだした。
空き家を飛び出し、無我夢中で走っていると、白い壁に黒い屋根、屋根には十字架がある建物が見えてきた。
教会だ、村の外れまで来たんだ・・・・・・この先は何もない。どうしよう。
アルマスが教会の入口を見ると、複数の黒いマントを被った人達が教会の中へと入って行くのが見える。
入口が開いてる。中に入るしかない。
でも、あの人達は何だろう。見た事がないけど・・・・・・・。
とりあえず中に入るしかない。
アルマスは黒いマントの人達が気になったが、教会へと向かうしかなかった。
入口に次々と黒いマントの人達が入って行く。
最後の1人が中に入ると、入口に立っている同じ黒いマントを着た男がドアを閉めようと、ドアのとってに手をかけた。
「待って!」
その声に黒いマントを着た男が声がした方を向くと、アルマスが両手に子猫を抱いて走ってくるではないか。
「待って!お願い、中に入れて!」
アルマスが大声で叫ぶと、黒いマントを着た男はドアを閉めるのを止めた。
そしてアルマスの両手にある子猫を見ると、黙ったまま深くうなづいた。
アルマスが急いで教会の中へ駆け込むと、黒いマントを着た男も中に入り、ドアを閉めた。
アルマスが中に入り、子猫を抱いたまま息を整えていると、しばらくして外からマルクスの声が聞こえてきた。
「アルマスの奴、どこにいるんだ?出てこい!」
アルマスが側にある窓ガラスからそっと外を見ると、外には少し離れたところにマルクス達が辺りを見回している姿がある。
しばらくその場を動かず辺りを見回していたが、黒いマントを着た男が出て来てマルクス達に近づくと、しばらくしてマルクス達は
その場から離れて行った。
マルクス達がいなくなると、アルマスはほっと胸を撫で下ろした。
気が抜けたようにその場から滑り落ちるように床に座り込むと、深いため息をついた。
よかった・・・・・・・・。
するとアルマスの両手に抱かれている子猫がミイと泣き声を上げた。
子猫はまだ生きているが、アルマスには弱々しく聞こえた。
「大丈夫?もう安心していいよ・・・・・牧師さんを探して、ケガの手当をしてもらおう」
アルマスは子猫の身体を優しく撫でると、ゆっくりと立ち上がった。
そして1歩前に動いた途端、下の方から何やら音が聞こえてきた。
その音はひとつではなく、鐘の音や大勢で誰かが歌のようなものを歌っている声が聞こえている。
一体、何だろう。下で何かやっているみたいだ。
アルマスがどこから音が聞こえているのか確かめようと辺りを見回すと、何かがやってくる気配を感じた。
誰かがこっちに来る!隠れないと。
アルマスはすぐ右側にある大きな柱を見つけると、慌てて柱の側へと移動した。
アルマスが柱の陰に隠れると、しばらくして1人の黒装束姿の女性がやってきた。
全身黒いワンピースに、頭に黒いベールを被っている女性は、ゆっくりと柱の側を通り過ぎて行く。
あの人は誰だろう・・・・・見た事がない人だけど。
柱の陰からアルマスが黒装束の女性を見ていると、その女性は部屋の奥の階段を降りて行った。
音が聞こえている方へ向かっている女性に、アルマスは下で何をしているのかが気になった。
下で何をしているんだろう・・・・・・・。
アルマスはゆっくりと黒装束の女性の後を追い始めた。
黒装束の女性は階段を降り、通路を歩いていくと、奥に大きなドアがあった。
ドアの前で立ち止まり、ドアを開けると、黒装束の女性は中へと入って行った。
アルマスはそれを見ると、辺りを見回した。
あるのは後ろにある階段、薄暗い通路と、先にあるドアだけである。
教会にこんなところがあるなんて知らなかった。
あの中で何をやってるんだろう。
アルマスは黒装束の女性の後を追おうとドアへと歩き出した。
アルマスがドアを開け、中に入った途端、歌声や音が聞こえてきた。
讃美歌のような歌や歌に合わせて鐘の音や鈴の音が聞こえている。
部屋は通路と同じくらい薄暗く、一瞬どこを歩いていったらいいのか分からないくらいの暗さだった。
アルマスはゆっくりと部屋の中へと入っていくと、奥に部屋があるのか灯りがついているのが見えた。
奥の広い場所には大勢の黒装束姿の人達が集まっていた。
左右両端の壁沿いに集まり、歌を歌いながら、それぞれの手には鈴や鐘を持ち、鳴らしている。
部屋の中央にはテーブルのようなものが置いてあり、黒装束の女性はそのテーブルの右側を歩いていく。
アルマスはその姿を壁から隠れるようにして見ていた。
黒装束の女性がテーブルの奥まで行き、左右に集まっている黒装束の人達を見ると、音がいっせいに止んだ。
辺りが静寂に包まれると、黒装束の女性は頭に被っているベールを取った。
黒髪の長髪で、毛先にソバージュがかかっている中年の女性の顔が見える。
そして黒装束の女性の前にあるテーブルには、ろうそくや小皿、空のグラスなどが置いてあった。
黒装束の女性はテーブルにあるものをひと通り眺めると、その中からマッチ箱を取り出した。
箱を開け、マッチ棒を1本取り出し、棒の頭を箱に擦りつけて火をつけると、側に置いてあるろうそくの火をつけた。
ろうそくに火が灯ると、黒装束の女性が何やら呪文のようなものを唱え始めた。
アルマスは聞こえてくる呪文に、一体何が行われているのか分からなかった。
これは・・・・何をしようとしてるんだろう。
これから何が始まるんだろう。
なんだかすごく不安だ。
アルマスが壁に隠れながら様子を見ていると、突然呪文の声が途切れた。
黒装束の女性はゆっくりと顔を上げると、入口を見ながら声を上げた。
「そこにいるのは誰だ?」
黒装束の女性の言葉を聞いた黒装束の人達はいっせいに入口の方を向いた。
いっせいに視線を向けられたアルマスは気まずさを感じた。
その場から逃げようと後ろを向いた途端、後ろからいきなり何者かに右肩を掴まれた。
力強く掴まれ、アルマスは思わず声を上げた。
「痛い!放せ・・・・・放せってば!」
「お前は何者だ?こっちに来い!」
痛がるアルマスに、右肩を掴んだまま1人の黒装束の男はアルマスを無理やり連れて行った。
アルマスが黒装束の女性の目の前まで連れて来られると、黒装束の女性はアルマスの抱えているものを見た。
「お前はここに何をしに来た・・・・・この子猫をここに連れて来るために来たのかい?」
アルマスは首を振りながら
「違う。ただここで何をしているのかと思って・・・・・」
「そうか。何も知らずにここに来たのか。ならちょうどいい」黒装束の女性はそう言うと、アルマスが抱いている子猫に両手を伸ばした。
そして子猫を抱き上げながら、子猫の身体を見て
「ケガをしているな。まあいい。さっそく儀式の生贄に捧げよう」
「生贄だって?」黒装束の女性の言葉を聞いてアルマスは驚いた「止めて!その猫を返してよ!まだ生きてるのに殺すなんて」
「確かにまだこの猫は生きている。でももう死ぬのは時間の問題だ。息が弱くなっている」
黒装束の女性は子猫をテーブルの上に置くと、子猫の身体はすっかり動かなくなっているが、口元がかすかに動いていた。
「まだ生きてるじゃないか、返して!その猫だけは助けてよ!」
アルマスがテーブルの上の子猫を取り返そうと、テーブルに両手を伸ばそうとした。
しかし側にいた黒装束の男に取り押さえられた。
黒装束の女性は拘束されたアルマスを見ながら
「もうこの猫は助からない。このまま生贄に差し出せば、それなりのともらいをしよう・・・・それとも」
「それとも?」
「それともお前がこの猫の代わりに生贄になるか?」
「・・・・・・」
それを聞いたアルマスは思わず黙り込んでしまった。
その時、テーブルの上で横たわっている子猫の鳴き声が聞こえた。
その声は小さく、弱々しい声だった。
アルマスが子猫の顔を見ると、子猫の目はアルマスを見つめていた。
そして再び小さな声でミイと泣くと、子猫は黒装束の女性の方を向いた。
アルマスはなぜ子猫がそんな素振りを見せたのか分からなかった。
「ホーパス・・・・・・」
「もう時間がない。儀式を始める」
黒装束の女性が子猫の様子を見ながらそう言うと、2人の黒装束の男が両端から女性に近づいてきた。
そしてテーブルの上にいる子猫を2人で押さえつけると、黒装束の女性はアルマスにこう言った。
「今から儀式を始める。見たくなかったら今すぐここから立ち去るがいい」
「嫌だ!ホーパスを殺さないで!お願い」
テーブルに押さえつけられている子猫を見つめながらアルマスが声を上げるが、後ろから黒装束の男性に体を押さえつけられている。
「おとなしくしろ!」
黒装束の男はアルマスの前に出ると、アルマスの視界から子猫の姿が見えなくなった。
黒装束の女性は呪文を唱え始めた。
テーブルの上にある小型のナイフを手に取ると、2人の男性に押さえつけられている子猫に近づいていく。
子猫にナイフを向けながら、黒装束の女性は左手で子猫の頭に触れた。
頭から顔に向けて撫でるように左手を下ろすと、開いていた子猫の両目は閉じていた。
黒装束の女性は左手を子猫から放すと、そのままナイフに添えた。
そしてゆっくりとナイフを振りあげた。
黒装束の男の後ろで、得体のしれない叫び声のような声が聞こえた。
「ホーパス!」
子猫の叫び声だと思ったアルマスが黒装束の男からすり抜け、テーブルの前まで走って行った。
テーブルの上には、身体が赤い血の色に染まった子猫が仰向けに横たわっている。
子猫は息をしておらず、もう少しも動かなかった。
「ホーパス・・・・・・・・・」
子猫の死体を見つめながら、アルマスの目からは涙があふれでてきた。
「儀式はまだ終わっていない、向こうに連れていけ」
空のグラスを持った黒装束の女性が近くにいる男性に声をかけると、アルマスは2人の男性に押さえられたちまちその場から連れ去られた。
アルマスがいなくなり、黒装束の女性は子猫の血をグラスに入れると、子猫の死体をテーブルから別の場所に移した。
テーブルをきれいにし、火がついたろうそくの隣に血が入ったグラスを置くと、再び呪文を唱え始めた。
辺りにいる黒装束の人達もいっせいに呪文のようなものを唱え始めた。
鐘や鈴の音も混じり、辺りは何とも言えない不気味な雰囲気に包まれていった。
一方、部屋の入口の方に移されたアルマスは1人で泣いていた。
次々と目から溢れ出る涙を服の袖で拭きながら、両腕を目に当ててひたすら泣いている。
アルマスを押さえつけていた2人の男性の姿はない。
アルマスは泣きながら、教会に来たことを後悔していた。
どうしてこんなことになったんだろう。
ホーパスを助けるためにここに来たのに。
ごめんよ・・・・・・ごめんよホーパス。
僕がもう少ししっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに。
僕がもう少し強かったら、マルクスにひどいことをされることなんてなかったのに。
その時だった。
突然後ろからものすごく明るい光がさし込んで来たのだ。
アルマスは目を閉じていても、まぶたの奥まで光がさし込み目の前が明るくなるほどだった。
アルマスは目を開けた。
それと同時に後ろの部屋から大きな歓声が聞こえてきた。
「光だ!ついに別世界への入口が開かれたんだ!」
アルマスが後ろを振り返ると、黒装束の人達は歓声を上げ、歓喜に沸いている。
黒装束の女性のすぐ近くの後ろの壁には、小さな穴が開いていた。
黒装束の女性は開いている穴を見つめていた。
「ついに別世界への扉が開かれたが・・・・・・とても小さい穴だ」
黒装束の女性はその場にしゃがみ穴を覗き込むが、その穴はとても小さく、大人が入れるような大きさではなかった。
黒装束の人達もそれぞれの場所から穴を見ているが、誰も穴の近くまでは行こうとはしない。
黒装束の女性が穴を見ていると、空いている穴がひとまわり小さくなった。
「穴が小さくなった・・・・・このままだと穴がなくなってしまう。誰か別世界へ行きたい者はいないか?」
黒装束の女性が黒装束の人達の方を向いて呼びかけるが、誰も手を挙げようとしない。
黒装束の女性がどうするか考えていると、ふとアルマスの姿が目に入った。
アルマスは茫然と開いている穴を見つめている。
黒装束の女性はアルマスと開いている穴の大きさを交互に見比べた。
そしてアルマスを見ると、こう呼びかけた。
「お前、別世界へ行く気はないか?」
「え・・・・・?」
それを聞いたアルマスは何を言われているのか分からなかった。
「この開いている穴の先に広がっている世界のことだ」
黒装束の女性は開いている穴を見ながらアルマスにさらに言った。
「せっかく開いた別世界への入口をこのまま閉めるのはもったいない。我々が待ち望んでいた世界だが、この穴の小ささでは
我々は入ることはできない。だから我々の代わりに行って欲しいのだ」
「別世界へ・・・・・・?僕が・・・・・?」
「そうだ。別世界にはこことは違った世界が待っている。お前の今の状況が嫌なら行くべきだ」
目の前に開いている穴に、アルマスは迷っていた。
本当にこの穴の先に別世界があるのか、アルマスは信じられなかったのだ。
もし本当に別の世界に行けるのなら、行ってみたい。
ここにいても僕はこれからも嫌なことばかりだ。
それに明日、マルクスに見つかったら本当に殺されるかもしれない。
それなら・・・・・・・。
アルマスは穴の前まで近づくと、黒装束の女性の顔を見た。
「・・・・・本当に別世界があるのなら、行きます」
アルマスはうなづくと、黒装束の女性は深くうなづいた。
「・・・・よく決断してくれた。穴が閉じて消えてしまわないうちに中へ入るんだ」
アルマスが再び穴を見ると、さっきよりも穴の大きさがさらに小さくなっていた。
さっきよりも小さくなってる・・・・・。
アルマスが穴を見ていると、横から黒装束の女性が話しかけてきた。
「別世界に行ったら、もうここへは戻れないかもしれない・・・・この世界への未練はないか?」
アルマスはしばらくしてからうなづくと、黒装束の女性はさらにこう言った。
「別世界には理想の国がどこかにあるらしい。その国に行けば一生楽しく暮らせる・・・・そこへ行ければいいな」
「理想の国・・・・・?」
「おお、またさらに穴が小さくなった」
黒装束の女性は穴を見ると、穴がさらに小さくなった「そろそろ中に入った方がいい。この世界とはお別れだ」
アルマスが穴を見ると、自分の体がぎりぎり入るかどうかの大きさにまで小さくなっていた。
入るなら今すぐ入らないと・・・・・次小さくなったら入れなくなるかもしれない。
アルマスは穴の大きさに戸惑いながらも、黒装束の女性の方を向いた。
「・・・・・さようなら」
「向こうの世界で幸運が訪れるといいな。さようなら」
黒装束の女性がアルマスに別れと告げると、アルマスは再び穴を見た。
すると穴はだんだんと小さく閉じ始めた。
アルマスは慌てて穴に向かって走って行くと、穴の中から眩しい程の光が出てきた。
アルマスの体は穴の大きさぎりぎりで中に入っていくと、光の中へと消えて行った。
アルマスをのみ込んだ穴はだんだんと小さくなり、光が消えると同時になくなっていた。
「消えた・・・・・・・・」
黒装束の女性は穴が消えた壁をしばらくの間見つめていた。