四月の桜



雲ひとつない青空。
セーラー服を着た1人の女子高校生、アオイが息を切らしながら走っていた。
額に汗をにじませながら、どこか落ち着かない様子で走って行く。



登り坂に差しかかると、アオイは先に見えてきた大きな白い建物を見た。
町の総合病院である。
アオイは息を切らしながらも坂を走り続けた。



やがて坂を上りきり、目の前に病院が見えるとアオイは足を止めた。
アオイのすぐ側には花が散り、緑が鮮やかに茂っている大きな桜の木が見える。



えっと、入院病棟の入口は・・・・・奥にある!



建物の奥に「入院病棟」と書かれた看板を見つけたアオイは再び走り出した。
アオイが走り去ると、強い風が吹き桜の木が揺れざわざわという音を立てるのだった。



病院に入り、アオイは看護婦と一緒に廊下を歩いていると見覚えのある中年の女性の姿を見つけた。
「おばさん」
「あ、アオイちゃん」
女性がアオイに気がつくと、アオイは看護婦に頭を下げてから女性に近づいた。
女性はアオイを見た途端、表情が一瞬明るくなったが、すぐに暗い表情になった。
「もう学校は終わったの?」
女性がアオイに聞くと、アオイは病室のドアを見ながら
「ハルトは?ハルトは大丈夫なんですか?部活中に倒れたって聞いて・・・・・」
「大丈夫よ。今はベッドで寝ているわ」
「部屋に入ってもいいですか?」
アオイがドアノブに右手をかけると、その女性、ハルトの母親は首を大きく横に振った。
「今眠ったばかりだから起こさないで」
「でも・・・・・・」
アオイが戸惑っていると、ハルトの母親はドアに近づいた。
アオイがドアノブから手を放すと、ハルトの母親がドアノブに手をかけそっとドアを開けた。
「少しだけよ。起こさないようにしてね」



アオイが音を立てないようにそっと病室に入った。
ベッドを見ると、パジャマ姿のハルトが眠っている。
ハルトの顔を見ると、包帯もなく、ケガをしているようには見えない。



包帯もしてないし、ケガしているようには見えないけど・・・・・・。



アオイがハルトを見ていると、後ろから小声でハルトの母親の呼ぶ声がした。
「アオイちゃん」
アオイが振り向くと、ハルトの母親はそろそろ部屋を出るようにうなづいた。
アオイは再び寝ているハルトを見ると、ゆっくりと病室を出て行った。



廊下に出ると、ハルトの母親はドアを閉めた。
「・・・・どこをケガしたんですか?ケガをしているようには・・・・」
「何もないように見えるでしょう?」
アオイが途中まで言いかけているのをハルトの母親が止めた。
そして何か思いつめた表情でアオイにこう言った。
「・・・・・話があるの。ここじゃ話せないから別のところに行きましょう」



「え・・・・・・!?」
しばらくして屋上で話を聞いたアオイは驚いて思わず声を上げた。
「そんな・・・・嘘でしょう?おばさん・・・・・」
「嘘じゃないわ」
ハルトの母親は戸惑っているアオイにきっぱりと答えると、こう付け加えた。
「先生から聞いたの。ハルトはもうそんなに長くはないって・・・・・」
「そんな・・・・どうして?どうしてハルトが・・・・」
「・・・・・」
「手術は?手術をしたら治るんじゃ・・・・・・・」
「先生に聞いたわ。でも、もう手術をしても治る見込みはないって・・・・・」
「そんな・・・・・!」
「こんなことになってしまうなんて・・・・・もうどうしようもないわ」
ハルトの母親はうつむいてしまうと、アオイはショックで何も言えなくなった。



しばらく沈黙が続いたが、ハルトの母親が静かに口を開いた。
「・・・・あと1年、来年桜が散る頃まで持つかどうか分からないって」



それを聞いたアオイはさらにショックを受けた。
「そんな・・・・・・・」
「・・・そうは見えないでしょう?あんなに元気なのに・・・・」
目から涙があふれ出すと、ハルトの母親はズボンのポケットからハンカチを出し、涙を拭いている。
「おばさん・・・・・・・」
アオイがハルトの母親に寄り添うように近づくと、ハルトの母親は泣きながら訴えた。
「ハルトには・・・・あの子にはこの事は言わないで」
「・・・・・ハルトにはまだ何も話してないんですか?」
ハルトの母親はうなづくと
「ハルトがこの事を知ったら、どうなるか分からない・・・・だから言わないで欲しいの。お願い」
アオイはどうすればいいのか分からないまま、ハルトの母親の願いにうなづくことしかできなかった。



それから数日後。
アオイが学校へ向かって歩いていると、後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「アオイ!おはよう」
アオイが声がした方を向くと、走ってきたハルトがアオイに追いついたところだった。
「ハルト・・・・!もう出てきていいの?退院したの?」
ハルトの姿を見た途端、アオイは驚いて思わず聞いた。
するとハルトはあっさりとうなづいて
「ああ、昨日退院した。先生がもう学校に行っていいって」
「そ・・・・・・そう」
戸惑っているアオイにハルトはアオイの顔を見ながら
「どうしたんだ?」
「え・・・・?何が?」
「いつもと様子が違うから。いつもなら笑顔で「よかったね」とか返してくれるのに」
「え、あ、えっと・・・・・・」
ハルトの指摘にアオイは思わずギクッとした。
そして考えながら
「入院してるって聞いてたから、もう少し病院にいるのかと思って・・・・」
「なんだ、そんな事考えてたのか。大丈夫、もうすっかりよくなったよ」
「そ、そう・・・・・本当に、どこも痛くはないの?」
「ああ、どこも痛くもかゆくもないよ。いつも通りさ」



ハルト、本当に何も知らないんだ。
どうしよう。こうしてハルトを見ているだけでもとても辛い・・・・・。



笑顔で微笑むハルトに、アオイは見ていてとても痛々しく感じるのだった。



放課後。
アオイが校舎を出て、校庭のグラウンドを見ると走っている数人の男子の姿が見えた。
陸上部の練習風景である。
アオイが何気なく走っている男子の姿を見ながら歩いていくと、どこかから声が聞こえてきた。
「おい、もう出てきていいのか?」
アオイが声がした方を見ると、遠くに黒いジャージ姿の先生と白いシャツに黒のジャージ姿の男子が見えた。
アオイは男子が誰なのか分かると驚いた。
退院したばかりのハルトだった。



アオイが2人に近づいて行くと、2人の話が聞こえてきた。
「あまり無茶はするな。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫です」
先生の言葉にハルトはあっさりと答えた。
先生はそれでも信用していないのか心配そうにハルトを見ながら
「この間は部活中だったから、すぐ助けを呼べたが・・・・いつもすぐ助けが来るとは限らないぞ。
 誰もいない時に倒れたらどうすることもできない」
「先生、どうしてそんな事を言うんですか?」
「お前の事が心配で言っているんだ。夏の大会に出たい気持ちは分かるが・・・・・・」
「どうしてオレがまた倒れるのを前提で話をしてるんですか?」
それを聞いた途端、先生は一瞬戸惑いを見せたが、すぐにこう切り返した。
「・・・・いいか、この先何があるか分からない。今は元気かもしれないがまた何らかの原因で倒れるかもしれない。
 お前だけじゃない。ここにいる他の生徒もだ」



2人の後ろでアオイは複雑な思いで聞いていた。



そういえばおばさん、学校の先生にも話をするって言ってた。
陸上部のあの先生にも話が・・・・・・・・。



先生はさらにハルトに聞いた。
「退院したばかりで、走れるのか?あまり無理はしない方がいいぞ」
「大丈夫ですよ」
ハルトはすぐにそう言ったものの、しばらくすると気が変わったのか
「今日は軽いウォーミングアップ程度に走ります」
「ああ、そうした方がいい。徐々に慣らすんだ・・・・・最初から無理をするなよ」
ハルトがうなづくと先生はその場を離れようと歩き出した。
そして後ろを振り返り、アオイの姿を見かけると、再びハルトに声をかけた。
「同じクラスの女子が来てるぞ。お前が無理をしないように見てもらおうか」
「え・・・・・?」
ハルトが後ろを振り返り、アオイと目が合うと、アオイは何も言えず黙り込んでしまった。



数時間後。
空が暗くなり星が見え始めた頃、ハルトとアオイは学校を後にした。
2人で並んで歩いていると、ハルトがすまなさそうにこう切り出した。
「・・・・悪かったな。練習につきあってもらって」
「ううん」アオイは前を向いたまま首を振った「でも何もなくてよかった。無事に終わって」
「アオイ、お前も先生と同じで、オレがまた倒れるとでも思ってるのか?」
アオイの言葉にハルトが半ばあきれたような口調で聞いた。
「だって、退院したばかりなのにすぐ走るなんて・・・・・」
「大丈夫だよ。走ったけどなんともなかったし、どこも痛くもなかった」
心配しているアオイをよそにハルトは平然としている。
「そうなんだ・・・・・それならいいけど」
「アオイは心配し過ぎなんだよ。先生もそうだけど、オレはもう大丈夫だから」
アオイがハルトの顔をちらっと見ると、ハルトは笑顔を見せた。
しかしアオイにはその笑顔がとても辛く、見ていられなかった。



数ヶ月が経ち、太陽の日射しが強く暑い季節になった。
ハルトは近日行われる陸上の大会に向け、連日練習を続けていた。



ハルトが午前の練習を終え、他の男子と部室で休んでいると先生が入ってきた。
「まだいたのか。午後も走るつもりか?」
その声を聞いたハルトは先生を見るとあっさりと答えた。
「あ、はい・・・・・まだ練習したいんです」
「今朝も言ったが、午後は気温が40度近くになる。グラウンドの気温が暑い状態の中走るのは危険だ。無理をするなと話したはずだ」
「話は聞きました。でもオレの他にも残ってる人がいるし、日陰を走ればいいかと思って」
「大会前だから気合が入っているのは分かるが、今日は危険だ。熱中症にもなりかねんぞ」
「分かってます。だから水分補給をしながら日陰を走ります。他の奴らともそう話してるので」
ハルトがじっと先生を見ていると、先生は折れたのかやれやれというようにため息をついた。
「・・・・分かった。日陰でやるんだな?くれぐれも無理はするなよ」
「はい」



しばらくしてハルト達は外に出た。
外に出た途端、刺すような日射しと熱波がハルトの体にまとわりつく。
ハルト達はグラウンドを避け、日陰がある校舎の裏側まで移動すると、練習を始めた。
校舎の端から端まで次々と、順番に走り出して行く。



練習を始めてしばらく経った時だった。
ハルトが走る番になり、走りだしたのはいいが、校舎の真ん中に差し掛かってきた時、突然体に異変が起こったのだ。



何だ、いきなり体が震え出した・・・・・それになんだか寒い。



それでもハルトはまわりに迷惑をかけまいと、校舎の端まで走り続けた。
端に着いた途端、ハルトの体はそのまま前に倒れこんだ。
「ハルト!」
それを見た他の男子達が声を上げると、次々と倒れたハルトのところへ集まってくるのだった。



ハルトが目覚めると、白い天井が見えた。
「ハルト!」
気がついた母親がハルトに声をかけると、その向かい側にいた3人の男子がハルトの顔を覗き込むように見た。
「ハルト!気がついた・・・・・よかった」
しかしハルトはまだ意識がはっきりしていないのか、ぼんやりとした様子で
「・・・・ここは?」
「病院よ」母親はハルトを見つめながら答えた「学校で倒れたのよ。よかった気がついて・・・・・」
「走り込みしてる途中で倒れたんだ、覚えてないのか?」
男子の1人が聞くと、ハルトはしばらくしてから思い出したのか
「・・・・そういえば、校舎の側を走ってる途中で寒くなって、そこからは覚えてない」
「暑かったから脱水症状で倒れたんだ」
「え・・・・そうなのか?」
ハルトが男子に聞き返すと、母親はうなづいて
「先生が話してたわ。軽い熱中症だって。しばらく休んでいれば大丈夫だって」
「・・・・そう」



「じゃ、オレ達はそろそろ学校に戻るわ」
男子の1人がハルトに言い出すと、ハルトはうなづきながら
「ああ・・・・ごめん。大会前の練習中に迷惑をかけて」
「熱中症には気をつけないとな。オレ達も気をつけるよ」
すると病室のドアが開き、看護婦が母親に声をかけた。
「先生からお話があるって・・・・・・」
「あ、はい・・・・分かりました」
母親が看護婦に答えると、看護婦はドアを閉めた。
「ハルト、ちょっと行ってくるわね」
母親はハルトにそう言うと、その場を後にした。
「じゃ、またなハルト。また学校に戻ってこいよ」
男子達もその場を後にすると、一気に部屋の中が静かになった。



1人になったハルトはゆっくりと起き上がった。
すると男子達がいた場所に、タオルが1枚床に落ちているのが見える。



あいつら、タオルを落としたのに気がついてないな・・・・・・。
まだ近くにいるだろうから持っていってやろう。



ハルトは両足をベッドの外側にやり、ベッドに座る形になると、ゆっくりと立ち上がった。
そして床に落ちているタオルを拾うと、ドアに向かって歩き出した。



ハルトの病室から少し離れた休憩所らしき場所に、男子3人が横並びでソファに座っていた。
横にある自販機でそれぞれ飲み物を買ったのか、手にはペットボトルがある。
「ハルト、とりあえず無事でよかったな」
1人がそう言いだすと、隣にいる男子もうなづいて
「ああ・・・・いきなり倒れた時はどうしようって焦った」
「すぐ先生呼びに行ったからよかった。あれから午後の練習中止になったし」
「でも、ハルトって大会に出られるのか?もうあまり日がないし」
「さあ・・・・・・」
すると一番端に座っている男子がこう言い出した。
「先生、ハルトを出さないんじゃないか?こんな事になったし・・・・・」
「・・・・・・」
「それに、ハルトの病気、治らないんじゃないかって聞いたけど・・・・・本当なのか?」
「え・・・・・・?」
2人が戸惑っていると、さらにこんなことを言った。
「先生から聞いてないか?ハルトは病気で、もうそんなに長くはないって・・・・・・」
「それは・・・・・・・」
2人が黙り込むと、辺りは重い空気に包まれた。



「・・・・・・・・」
休憩所に出る手前の廊下で、ハルトは3人の話を聞いていた。
話を聞いた途端、ハルトは何が起こっているのか分からないほどショックを受けた。



オレが病気で、そんなに長くないって・・・・・・・。
そんな話、全く聞いてない。
一体どういうことだ?何が起きてるんだ。信じられない・・・・・・!



ハルトがどうしたらいいのか分からず、その場に立ち尽くしていると
前の方から声が聞こえてきた。
「あら、ハルト?どうしたの?」
ハルトが前を向くと、向かい側の廊下に母親の姿があった。



母親の声に休憩所の3人が気がついた。
「ハルト・・・・・・?」
廊下側にいる男子が廊下を見ると、タオルを手にしているハルトの姿があった。
ハルトはその男子を見ると
「これ、病室に忘れていっただろ」と持っているタオルを差し出した。
男子はタオルを見ながら
「あ、ああ・・・・あいつのか。ありがとうハルト」とタオルを受け取った。
「まったく。手間をかけやがって。じゃあな」
ハルトが男子に背を向けると、足早に病室へと歩いて行った。



ハルトが病室に戻ると、ベッドの前で立ち止まった。



オレが病気で、そんなに長くないって・・・・・嘘だ。
そうだとしたらオレはあとどのくらい生きられるんだ?
せっかく頑張ってきた大会も出られなくなるかもしれないって・・・・・。



ハルトの心の中で感情的なものが沸き上がった。



母親がハルトの病室に着いた途端、中から泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「ハルト!」
それを聞いた母親がドアを開けると、ハルトが泣きながらベッドの掛布団に向かって両手を何度もたたきつけている。
「どうして・・・・・どうしてなんだ?どうしてこんなことに・・・・・・・」
「ハルト・・・・・何があったの?」
「母さん・・・・・」母親の声にハルトは泣きながら後ろを振り向いた。
「母さんは知ってたの?オレがもうすぐ死ぬって・・・・・」
「・・・・・・!」
「知ってたんだろう?どうして、どうしてそんな大事な事、今まで黙ってたんだよ!」
「ハルト・・・・・・・」
「どうして、どうしてオレが・・・・・・・どうしてオレが死ななきゃならないんだよ」
ハルトは床に崩れ落ちると再び声を上げて泣き始めた。



母親は泣き続けるハルトを抱きしめた。
「あなたの病気は治らないわ。いつ死ぬか分からない・・・・だから残りの時間を大事に、好きなことをして過ごすのよ」
「母さん・・・・・・」
ハルトが顔を上げ、母親を見ると、母親も泣きながらこう言った。
「苦しいのは私も一緒よ、ハルト・・・・・これからの時間を大切にしましょう」
ハルトが黙ってうなづくと、2人は泣きながら抱き合うのだった。



数か月後。
秋になり、病院前の桜の木の葉が赤や黄色、オレンジ色に染まり、紅葉が進んでいる。
ハルトは結局夏の大会には出られず、そのまま入院を余儀なくされた。
いつまた倒れるかもしれないという周囲の不安、主治医の先生からのアドバイスもあり、両親が入院を決めたのだ。



ハルトも時間が経つにつれ、体調に波が出てきた。
病院内を歩き回るほど元気な時もあれば、体が重くなりベッドから起き上がるのが辛い時もある。
学校に通えず、授業は親が持ってきたPCを通じて、ネットで授業を受けていた。
時々アオイや陸上部の仲間、クラスメートの仲間が見舞いに来て雑談を楽しんでいた。



そんなある日、病室でPCの画面を見ていたハルトはため息をついた。
「授業が終わった・・・・・・」
ハルトはPCを閉じると、大きなあくびが漏れた。



今までは部活があったから楽しかったけど、今はやることが何もない。
母さんは夕方にならないと来ないし、ヒマだな・・・・・・。
アオイも最近忙しいってなかなか来なくなったし。



ハルトはふと窓の外を見た。
遠くに鮮やかな紅葉の葉をつけた桜の木が見える。



あれって桜の木か。
今までよく見てなかったけど、こんなに色が変わるんだ。



ハルトはベッドから立ち上がり、窓に近づくと窓を開けた。
窓を開けたとたん、強い風がビュービューと音を立てて吹いてきた。
「うわっ、寒い・・・・・・」
冷たい風にハルトが思わず顔を右側に向けると、隣の病室にいる老人の姿が見えた。
白髪で眼鏡をかけた男性の老人が、キャンバスに向かって何かを描いているようだ。



隣って、爺さんがいるんだ。
何を描いてるんだろう・・・・・。



ハルトがキャンバスの絵が気になって見ていると、老人が気がついたのかハルトの方を向いた。
そしてハルトを見ると、窓を開けて声をかけてきた。
「こんにちは。絵が気になるのかい?よかったら見においで」



ハルトが隣の病室に入ると、そこには老人の男性と同じくらいの年老いた女性もいた。
「いらっしゃい。隣にいる人ね」
「は、はい」老婆の言葉を受けてハルトはうなづいた。
するとさっきの老人が声をかけてきた。
「おお、さっそく見に来たな。こっちにおいで。絵を見せてあげよう」



ハルトが老人の側に行き、イーゼルにある絵を見ると驚いた。
「これって・・・・・・外にある桜の木ですか?」
「その通り」老人は大きくうなづいた「これでもまだ途中なんだ。まだ葉っぱの部分ができてない」
「え・・・・・・でもすごい・・・・・よく描けてます」
ハルトはイーゼルの絵をまじまじと見ている。
「この人の絵は上手いのよ。他にもあるの」
老婆はそう言うと、部屋の端に置いてある絵をハルトに見せようと、絵を2人の方に向けた。
ハルトはそれを見た途端、さらに驚いた。
「これは・・・・・これも外にある桜の木・・・・・満開の時のですか?」
「そうだよ」老人は微笑みながら答えた「もうずっとここにいるからね。桜の木をずっと描いてるんだ」



ハルトは老婆が持っている満開の桜の絵を見つめていた。
中央に大きな木があり、幹から枝がキャンバスの端まで伸びており、緑の葉と桜の花の色が鮮やかで美しい。
生き生きとした色使いに、ハルトはすっかり魅了されていた。



ハルトは老人を見ると聞いた。
「これって水彩画ですか、それとも・・・・・・・」
「水彩の時もあれば、油絵の時もある。気分次第でどう描くか決めるんだ」
「もしかして、プロの絵描きさんですか?」
「プロの絵描きだって?」老人はそう聞き返すと笑い出した。
「プロなんてとんでもない。趣味でやってるだけだ。ここにいるとやることがなくてね。趣味で始めたんだよ」



ハルトが黙っていると、老人はハルトを見てこう言った。
「ずっと部屋にいるのもヒマだろう?よかったら絵を描いてみないか?」
「え・・・・絵を?」
ハルトが戸惑っていると、老人は深くうなづいた。
「君は高校生か?学校の授業で絵を描いたことはあるだろう?上手くなくてもいい。時間つぶしに書いてみないか」
「・・・・・・」
すると老婆がハルトにこう提案した。
「この人、他に話し相手が欲しいのよ。私だけじゃ物足りないって。たまにでもいいから、ここに話をしに来てもらえれば」
「絵が下手でも構わない。よければ教えよう・・・・・どうかな?」



ハルトは再び満開の桜の絵を見た。
そして老人の側にある書きかけの絵を見ると、しばらくしてこう言った。
「・・・・・分かりました。よろしくお願いします」



それからというもの、ハルトは絵を描き始めた。
体調が悪い時以外は隣室の老人に教わりながら、黙々と絵を描いていく。
今まで絵を描いたことはなかったが、本人が思っていたよりも上手く、教えている老人や
両親からも絵が上手いと褒められるようになった。



そうしているうちに季節は冬になり、もう少しで年明けになろうとしていた。
主治医の先生から一時帰宅をしてもいいとの許可が出て、ハルトはいったん家に帰ることになった。
「荷物はもう全部車に運んだわ。もう持っていくものはないわね」
母親が病室に入ってくると、窓の外を見ているハルトに聞いた。
ハルトは母親の方を振り返った。
「うん。もうないと思う」
「ハルト、そこにあるキャンバスと絵具は持って行かなくていいの?」
母親が窓側の奥の壁に立てかけてあるキャンバスやイーゼルを見ている。
ハルトは一瞬キャンバスを見るが、母親を見て
「年明けに戻ってくるなら、持って行っても場所を取るだけだし・・・・・持って行かなくていいよ」
「そう・・・・・出来上がった絵だけでも持って帰ったら?」
「そう言っても、出来上がってるのはまだないし、持って行っても部屋片付いてないだろ?」
母親が何か言おうとすると、後ろでドアを叩く音がした。



母親がドアを開けると、隣室の老夫婦の姿があった。
「こんにちは。今日息子さんは退院ですか?」
老人が母親に聞くと、母親は頭を下げながら
「ああ、お隣りの・・・・いいえ、一時帰宅なんです。年末だから家族で家で過ごすようにって先生から許可をもらって」
「そうですか」
老人はそう答えると、部屋の奥にいるハルトの姿を見た。
「ハルト、今から家に帰るのか?」
「あ、おじさん」ハルトは老人に気がつくと、老人に近づいた「年末だから家族で家で過ごせって先生から許可が出たみたいで」
「そうか、よかったな。お正月は家でゆっくりできるな」
「おじさんは年末は家に帰らないんですか?」
「ああ、帰らないよ」老人はあっさりと答えた「病気のこともあるし、帰るのももう面倒だからな。家に帰ってもやることがないし」
「病院にいられるのであれば、それが安心だからね」
後ろで老婆が答えると、母親は老夫婦に向かってこう言った。
「じゃ、そろそろ行きますので・・・・・失礼します」
「ああ、元気でな。また年明けに会おう」
母親とハルトが病室を出て行くと、老夫婦は2人の後ろ姿を見送るように見ているのだった。



その日の夕方、ハルトが家に戻ったと聞いたアオイがハルトの家にやってきた。
クラスの生徒がハルトに手紙を書いたので渡したいと言うのだ。
アオイは退院したばかりのハルトを思い、玄関で手紙を渡してすぐ帰ろうと思っていたが
ハルトの母親に部屋にいるから、持って行ってあげてと言われ、ハルトの部屋に向かった。



アオイはハルトの部屋に入ると、辺りを見回した。
部屋はきれいに整えられ、ハルトは部屋の奥の机の前にある椅子に座っていた。
「どうしたんだアオイ、家に来るなんて・・・・」
ハルトがアオイを見ると、アオイはその姿に戸惑った。
ハルトの体が以前より痩せ細り、声も以前と比べ張りがないように聞こえたからだ。
「ハルト・・・・・・」
アオイが何かを言いかけたが、途中で言い留まった。
体が痩せてしまい、声もどこか元気がない。
それを言ってしまうと、ハルトを傷つけてしまうかもしれないと思ったからだった。



ハルトはキョトンとした顔で
「どうしたんだ?オレの顔に何かついてるのか?」
「ううん、何でもない」
アオイは首を振ると、右手に持っている手紙が入った大きな紙袋を差し出した。
「これ、クラスのみんなで手紙を書いたの。代表で私が持ってきたの・・・・後でゆっくり読んで」
ハルトは紙袋を受け取ると、机の上に置いた。
「ありがとう、アオイ」
「体の調子はどうなの?先生から退院したって聞いたけど・・・・・」
「退院はしたけど、一時帰宅だよ。来年になったらまた病院に戻るんだ」
「そう・・・・・なんだ」
アオイがそう言うと、2人は黙り込んでしまった。



部屋の中が静かになると、アオイはなぜか緊張してきた。
ハルトは何も言わず、アオイをただ見つめている。
しばらくしてハルトが何か言おうとすると、アオイが先にこう言った。
「今日はもう遅いし、そろそろ帰るね」
「え、あ・・・・・うん」
ハルトは少し戸惑いながら答えたが、何かを思い出したように再び机の方を向くと、何かを探し始めた。
アオイは何も言わずに部屋を出ていく。
ハルトはようやく見つけたのか机から1枚の紙を取り、4つに折りたたむとアオイを追いかけるように部屋を出た。



アオイが玄関から外に出て、歩き始めた時だった。
「アオイ!」
ハルトの声にアオイが振り返ると、玄関からハルトが出てきた。
「どうしたの?ハルト」
「これ、アオイにやるよ。手紙のお礼・・・・でもないけど」
ハルトが紙をアオイに差し出すと、アオイは戸惑いながらもそれを手に取った。
「ありがとう・・・・・!?」
アオイはその場で紙を広げて見た途端驚いた。



紙に描かれていたのはアオイの顔だった。
鉛筆で描かれた顔は笑顔で制服姿のアオイ。
アオイは驚きの表情を隠せなかった。
「これって・・・・・いつの間に私を描いてたの?」
「学校の入学式の時の写真に写ってた。絵を描き始めた時に人を描いてみようと思って描いたんだ」
「入学式の写真って・・・・・?」
「スマホに残ってたんだ。他にもいろいろあったけどはっきり写ってるのはアオイの写真だけだったから」
「・・・・これ、もらってもいいの?」
「ああ。アオイを描くのがそれで最初で最後かもしれないから・・・・・それに」
「それに?」
「クリスマスは過ぎたけど・・・・・・何か渡そうと思って。あまり大したものじゃないけど」
「え・・・・・?」
アオイが戸惑いながらハルトを見ると、ハルトは照れくさそうに玄関の方を向いた。
「じゃ・・・・寒いから気をつけて帰れよ。じゃあな」
「う、うん・・・・ありがとう、ハルト」
アオイがお礼を言うと、ハルトはそのまま家の中に入ってしまった。



アオイは再びハルトが描いた絵を見た。
しばらく絵を見つめていたが、きれいに4つに折りたたむと右手に持ったまま歩き出したのだった。



年が明け、お正月が終わり、ハルトは病院に戻ることになった。
自分の病室に向かって廊下を歩いていると、隣室のドアが静かにゆっくりと開いた。
部屋から老婆が出てくると、母親は挨拶をした。
「こんにちは」
「ああ、戻ってきたんだね・・・・・・」
老婆は暗く、沈んだ表情で小声で答えると、母親がその様子に気がついた。
「どうかされたんですか?」
「息子さん、元気そうでよかった」
老婆はハルトを見ていると、ハルトも老婆の様子に違和感を感じながら
「・・・・おじさんは?中にいるの?」
「戻ってくるのを待ってたんだけどね・・・・・・」
「え・・・・・それって、どういうこと・・・・・?」
ハルトが戸惑っていると、老婆は後ろを向いてドアを開けた。
「入れば分かる。中に入って」



ハルトと母親が部屋の中に入ると、そこに老人の姿はなかった。
あるのは老人が使っていたキャンバスとイーゼル、絵具一式。
それと老人が今まで描いた作品が数点あるだけだった。



ハルトはそれを見た途端、老人が亡くなったと悟った。
ハルトが黙っていると、後ろで母親も同じことを思ったのか老婆に聞いた。
「・・・・もしかして、お亡くなりになったんですか」
老婆は2人を見ると、深くうなづいた。
「昨年末にあなた達がここを出て、数日経った頃急に体調が悪くなってね・・・・・あっという間にいなくなってしまった」
「そんな・・・・・・」



それを聞いたハルトはショックを受けた。



そんな・・・・あんなに元気だったのに。
また年明けに会おうって言ってたのに。
まだ絵について教えてもらいたいこと、たくさんあったのに・・・・・。



ハルトが呆然と立ち尽くしていると、老婆がハルトに声をかけた。
「看護婦さんからあなた達が今日戻ってくるって聞いて、待ってたんだよ。ここにあるもの全部、もらってくれるかい?」
「え・・・・・・?」
ハルトが老婆を見ると、老婆は絵具が入っている箱を持って来た。
「絵を描いている人に使ってもらいたくてね。家に持って帰ってもしょうがないから」
「・・・・いいんですか?もらっても」
「いいよ」老婆は箱をハルトに渡すと、窓側にあるキャンバスとイーゼルを見た。
「あれも持って行っていいよ。あとあの人が描いた絵は・・・・好きなものがあれば持って行って。残ったものは持って帰るから」



しばらくしてハルトは病室に1人でいた。
老婆が部屋を出るのを見送り、母親も荷物を置いた後、家に帰って行ったのだ。
窓側には老婆からもらった老人が使っていたイーゼルとキャンバス、数点の老人の絵が置かれている。



ハルトはベッドに座ったまま、老人が使っていた絵具の箱を開けた。
すると折りたたまれた白い紙がすぐ目についた。
ハルトが白い紙を広げてみると、老人が書いたと思われる文章が書かれていた。



この手紙を見ているってことは、オレはもうこの世にいないってことだ。
体に爆弾を抱えて長い間生きてきたが、もうそろそろそれが爆発しそうだ。
お前の病気は治るのかどうかは分からないが、人間ってのはいつか必ず死ぬ。
それが早いか遅いかどうかだ。

この絵具をお前に託す。
自分の感じるままに描くんだ。
どんなに下手くそでも、お前の感性に共感するやつが必ず現れる。
自分を信じて、自分の思いのままに描くんだ。
最後まであきらめるんじゃないぞ。



手紙を読み終えるとハルトは窓の外を見た。
遠くに木の枝のみになった桜の木が見える。



ハルトは老人の病室で見た満開の桜の絵を思い出した。



おじさんのあの絵、とてもきれいだった。
オレも満開の桜を描いてみたい。



ハルトの中で、次に何を描くのか決まった。



それからというもの、ハルトは桜の絵を描き始めた。
スマホで桜の写真を検索し、出てきた満開の桜の花の写真を見ながら描いていく。
最初は桜の花のみを描いていたが、ある程度上手く描けるようになると今度は桜の木全体を描くようになった。



こうして桜の作品が増えていくうちに、病院内でハルトの絵が上手いと評判になっていった。
毎日病室に来ている看護婦がハルトの絵を見て、絵が上手いというのが看護婦達の間で広がり
次第に先生や病院に入院している患者達にも広がっていった。
同時に絵を見たいという要望が多くなり、病棟のある一角にハルトの絵を飾るようになった。



それから数か月後。
窓から満開の桜が見える中、ハルトはゆっくりと筆を置いた。
ハルトの目の前のキャンバスに満開の桜の木の絵がある。
ハルトはその絵をしばらく見ていると、絵の仕上がりに満足したようにゆっくりとうなづいた。
「できた・・・・・・・」



出来上がった絵はさっそく病院の一角を飾ることになった。
入院病棟の入口近くの壁に飾られた絵をハルトと母親が見ていると、そこにアオイがやってきた。
「こんにちは・・・・・」
アオイが挨拶をしながらハルトを見た途端、ハルトの車椅子姿に戸惑った。
「あら、アオイちゃん。来てくれたのね」
ハルトの母親がアオイに気がつくと、アオイはうなづきながら
「ハルト、どこかケガでもしたんですか?車椅子なんて・・・・・・」
「ケガはしてないよ」ハルトは首を振った。
「ただ、年明けに調子悪かったから。病室じゃ歩いてるけど、外だと念のためだって先生がうるさくて」
「外でまた倒れたらいけないって先生が」とハルトの母親
「そうなんですか・・・・・・」
アオイが心配そうな表情でハルトを見ていると、ハルトの母親が後ろにある絵を見ながら言った。
「それよりこれを見て。ハルトが描いたのよ」



アオイが壁に飾られている絵を見ると、思わず声を上げた。
「きれいな桜・・・・・!これってハルトが描いたの?」
「そうよ。外に咲いてる桜と同じくらいきれいでしょう?数ヶ月かかってやっとできたのよ」とハルトの母親
「すごいきれい・・・・・・外にある満開の桜を見てるみたい」
「アオイにそう言ってもらって嬉しいよ」
ハルトは絵を見ているアオイの言葉に素直に嬉しくなった。
ハルトはハルトの母親の方を向くとこう言い出した。
「今日天気がいいし、久しぶりに外に出たいな。外の満開の桜も見たいし」
「そうね・・・・・・」
ハルトの言葉にハルトの母親は少し戸惑いを見せたが、しばらくしてハルトに言った。
「ハルト、最近体調も安定してるし。病院の外の桜を見るだけなら・・・・先生に話してみるわね」



しばらくしてアオイ達は病院の外に出た。
看護婦同伴ならという条件で主治医の先生から許可をもらったのだ。
ハルトは看護婦に車いすを押してもらいながら桜の木の下まで来た。
看護婦の隣には主治医の先生もついてきている。



「こうして木の真下から見る桜もきれいね」
ハルトの母親が上を見上げて、木の枝に咲いている桜を見ている。
「そうですね・・・・・」
アオイも顔を見上げながら、満開の桜を眺めている。
ハルトの母親は視線を桜からハルトに移した。
「ハルト、よかったわね。満開の桜が見られて」
ハルトは黙ってうなづきながら、満開の桜を眺めている。



ハルトは右手に桜の花がついている小さい枝を持っていた。
桜の木の手前に落ちていたのに気がついて、アオイが拾ったのだ。
枝には花がひとつだけついているが、その花の色がみずみずしくきれいな色なので
ハルトは次の作品にしようと思い、持ち帰ろうと思ったのだ。



みんなが桜を見ていると暖かく爽やかな風が吹いてきた。
風が木を揺らし、桜の花びらが花吹雪のようにはらはらと舞い落ちてきている。
「満開の時もきれいだけど、こうして散っていく桜もきれいね」
花吹雪を眺めている母親の言葉に、ハルトは黙ってうなづいた。



アオイも雪のように舞い散る桜を眺めていた。



毎年桜を見ているけど、こうしてゆっくり見ることはなかったな。
とてもきれいだけど、あっという間に全部散ってなくなって、葉桜になっていって終わっちゃう。
なんだかとても儚い花・・・・・・・。



アオイがそう思っていると、突然ハルトの母親の大きな声が聞こえてきた。
「ハルト!」



アオイが声がした方を向くと、ハルトの周りにみんなが集まっていた。
「ハルト、ハルト!」
ハルトの母親は何度もハルトの名を呼び続けている。
アオイがハルトの手元を見ると、両手は膝の上に乗ったまま動かない。
持っていた桜の枝は地面に落ちていた。



「ハルト!」
アオイはハルトに近づくと、だらんと頭を下げうつむいているハルトを呼び続けた。
「ハルト、起きて!しっかりして、ハルト!」
ハルトの母親もハルトの名を何度も呼ぶが、ハルトは動かず反応もしない。
先生がハルトの右腕を取り、頭をハルトの胸に近づけた。



しばらくすると先生はそっとハルトから離れ、母親とアオイを見ると静かに首を横に振った。



それを見た途端、アオイはその場に崩れ落ちた。
「ハルト・・・・・・・」
母親は途端に泣き出し
「そんな・・・・・・ハルト、起きて。お願い、ハルト・・・・・・!」とハルトに何度も呼びかけた。
「ハルト、ハルト・・・・・!」
桜が散る中、アオイはハルトに向かって泣きながら何度も名前を呼び続けるのだった。



1年後。
アオイは病院前の桜の木の下にいた。
満開の桜を眺めながら、アオイはハルトの事を思い出していた。



この桜を見ると、ハルトがここで亡くなった時の事を思い出してしまう。
まだ辛いけど、通り道だからこの桜を見ずにはいられない。



アオイは桜を見ながら、ふと思った。



ハルトの人生ってどうだったのかな。楽しかったのかな。
病院にいた間は辛かったと思うけど、私といた時はどうだったのかな。
ハルト・・・・・・。



その時、後ろから強い風が吹いてきた。
桜の木が強くあおられて、桜の花びらがひらひらと吹雪のように舞い降りてきた。



桜吹雪を眺めていると、アオイはハルトが桜吹雪を通じて応えているように感じた。



お前といて楽しかったよ。
いつまでも泣いてないで、アオイらしくやっていけばいい。
これからもがんばれよ。



ハルトがそう応えているように思えた。



ハルト・・・・・・・。



アオイが感傷的になり、泣きそうになった時、後ろからアオイを呼ぶ声が聞こえた。
「アオイちゃん」
アオイが振り向くと、そこには病院から出てきたハルトの母親の姿があった。
アオイは涙を指で拭うと、ハルトの母親を見た。
「おばさん・・・・・ハルトの絵は寄贈したんですか?」
「ええ」ハルトの母親はあっさりとうなづいた「病院に飾ってもらうことにしたわ。その方がいいと思ってね」
「でも、いいんですか?それで」
「いいのよ。家に飾る場所がないし、それにハルトの絵が好きな患者さんも多くて、ハルトの絵が癒しになるって言われたの。
 ハルトの絵が役に立てるんだったらと思うと嬉しくて」
「・・・・・・・」
「ところでアオイちゃん、看護学科がある大学を受験するんですって?」
「あ、はい」アオイはうなづくと続けてこう言った。
「まだ決めたばかりでこれからなんですけど、ハルトみたいな難病の人達の命を救いたいと思って・・・・・」
「アオイちゃんならきっとできるわ。ハルトもきっと応援してくれてると思う」
ハルトの母親はそう言うと、雲ひとつないきれいな青空を見上げた。



アオイもつられるように青空を見上げた。
再び風が吹き、淡い桜の花びらがはらはらと舞い落ち、前を向き始めたアオイを応援しているかのように見えた。