春のゆううつ prodution notes



暑くなったり寒くなったり、気温の変化が激しいですがいかがお過ごしでしょうか。
最近は晴れたらすっかり夏みたいに暑くなってますね。
気温差が最近激しいので、体調にはお気をつけ下さい。



前回は別れをテーマに書きましたが、今回は出会いをテーマに短編を書きました。
4月になると(もうあと数日で5月ですが)、新しい年度がスタートします。
入学式や入社式の他に引越しやら、その準備やらで何かと慌ただしい月でもあります。



また新しい環境になると、自分はうまくやっていけるのかっていう不安が出てきますよね。
今回はそれをテーマにしたお話でもあります。
タイトルも毎回最後につけるのですが、「春のゆううつ」としました。
最初は英語で「spring melancholy」にしていたのですが、日本語に決めました。



ここで今回の[.que]さんの曲の話をします。
今回は初期のアルバム「sigh」からタイトル曲「sigh」を使いました。
ここ数回は最近の曲から短編を書いていましたが、初期の作品から何か書きたいと前から思っていて
今回ようやく使ってみました。
「sigh」はアルバムの最初に入っている曲で、短めの曲なので聴いているうちにいつの間にか次の曲を
聴いているということが多いです。
この曲を聴いていてまず春の日射しの中、子供が遊んでいるという場面が浮かんできました。
子供のすぐ側には母親がいて、子供を見守っているイメージです。
そのイメージをそのまま、話の最初に持ってきました。



そこからどうやって最後まで話を持っていくか。
今回は最初からどうしようかと手探り状態でした。
いつもだと書く前から(または途中から)最後を決めて、そこに向かって書いていくのですが
今回は最後を特に決めていなかったので、最後までどうするのかが決められないまま終始手探りでした。
最初は子供をメインにした分かりやすい話にしようと思っていたのですが、書いていくうちに母親メインの
話になっていきましたね(^^::
児童小説じゃなくて、ホームドラマになっていってしまいました。



前々回の話では子供がメインで、大人は先生とおばあちゃんの2人しか出てこなかったので
やりやすかったのですが、今回は子供とその母親で、どちらかと言うと母親メインなので
ホームドラマになってしまいました。



と言っても私はまだ結婚もしておらず子供もいないので(^^:: 
今回は外では大人しくなってしまう子供を持った母親の心の変化や不安をどうやって書くかも手探りでしたね。
最初は引越ししてきたばかりの親子という設定ではなく、ユウマも最初は6歳という設定ではなかったのですが
書いていくうちに設定を変更していきました。
その場所に長く住んでいる設定であれば、少なからずも母親のアスカには知り合いがいるでしょうし
ユウマが3歳か4歳であれば、幼稚園で会う友達や知りあいもいると思うので、設定を変更せざるを得なくなりました。



また非常に迷ったのが父親を登場させるかどうか。
最後の学校の入学式のシーンですが、最近では家族揃っての参加が多いらしいので
ユウマとミオの父親を登場させた方がいいのではと思いました。
ただ、そこだけのために人数を増やすのもどうかとも思いました。
人数を増やすということは、それなりにセリフもシーンも自然と多くなります。
話が長くなるのと、入れることでまた何か印象的なシーンを入れたほうがいいのかっていう葛藤が出てくるので
あえて父親は登場させないことにしました。
小学校の入学式は平日にやるところもまだありますからね(^^::



両親の前では元気な反面、外では大人しくなってしまうユウマ。
小学校で友達ができるのか、不安になっていた母親のアスカでしたが
迷い猫をきっかけに、同じく最近越してきたミオとユミの親子と知り合ったことで友達ができて
さらに同じクラスになり、ユウマにはさらに友達ができたことでようやくほっとしたアスカのお話でした。
ちなみに「sigh」という意味は「(安堵した)ため息」や「ほっ」っという意味があります。
なので今回「sigh」とう曲を使ったというものあります。



ユウマの目線でこの話を書いてもよかったのですが、6歳っていう設定ですからね。
ちょっと難しいかもしれませんね(^^::
それもあって今回は親目線でってことになってしまいました。



春になると新しいことが始まる、またいろんなことが変わるというイメージですが
何か始まる、変わるってなると、必ずというほど不安がわいてきます。
先がある程度見えていれば、それに備えられるとは思いますが、先が見えないほど不安が大きいですよね。
不安が大きいほど、どうすればいいんだろうと迷ったり考え込んだり。不安を避けるためにあきらめたり。
そんな時に友達や知り合いがいて、話を聞いてくれればいくらか不安がやわらぐと思いますが
話せる人がいない場合は正直キツイですよね。
私もあまり友達がいないのですが(^^:: 何かが変わるとか新しい環境に身を置くことになった場合は
とりあえずそのまま身を置くことにしています。
不安でいろいろマイナスなことを考えてしまうと、本当に嫌な事が起きてしまったりする場合があるので
考えないようにして、そのまま身を任せてみる。
そうしてみると現状のままか、状況が良くなったりして「なんだ。大した事なかった」ってほっとしたりすることも
あるので、とりあえず何も考えないようにはしています。



周りからは「どんな人とでもうまくやっていけるよね」と言われていますが、そんなことはありません。
苦手な人はもちろんいますし、嫌いなタイプの人もいます。
ただ、それを表立って言わないだけです(^^::
それってストレスになるんじゃないかって思うかもしれませんが、それは別のところで発散すればいいわけで。
分け隔てなくいろんな人と接していかないと、特に会社ではいつ誰が自分の上司になるか分からないですからね。
上司にならなくても同じチームになったら、どうしてもうまくやっていかないと仕事が進みませんからね。



それは会社だけではなくて、学校でも、幼稚園でも、部活でも、趣味のサークルでも
同じようなことが言えますよね。
人が集まるということは、いろんな考えや意見を持ってる人が集まるということで、1人1人それぞれ違っていて
当たり前なんですよね。
それぞれの意見や考え方を尊重できる人なら、お互いのためになると思いますが、必ずしもそうではないです。
自分が正しくて他は間違ってると言う人もいますし、自分と意見が合う人しか信用しないと言う人もいます。
またどうしても自分と気が合う人ばかりで集まってしまいがちですよね。
でも、そうなってしまうと、同じような考えを持った人ばかりで、たとえ間違った方向に行っているとしても
それに気が付かず、そのままズルズルと悪い方向に行ってしまって、最悪取り返しがつかなくなる場合もあります。
第二次世界大戦のドイツのナチスが一番分かりやすい例だと思います。



最近それと同じような事が起こっていますよね(あえて書きませんが)。
もう2ヶ月経っていますが、もうそろそろなんとか収まってほしいものです。
こうしている間にも、何の罪もない人達が亡くなっていくのはとても悲しいことです。



お互いの個人を尊重し合える。
他人の意見や考えを聞いて、よければ自分の中に取り入れる。
明らかによくない事であれば、はっきりと悪いと言える。
自分が発言する時は、他人を傷つけないようにまず考えてから発言する。
自分も気を付けたいと思うことです。
(それでもたまに感情的になって、誹謗中傷を言ってしまうことはありますが)



あと最近になって思うことは、自分が相手の立場になって考えてみる。
それをやっている人って昔と比べたら少ないんじゃないかってことです。
「他人に対して思いやりがないな、この人」って思うことがここ数年で多くなったような気がします。
特に街中で歩いていたり、電車に乗っていたりすると時々、そんな光景を目にすることがあります。
例えば電車内だったら、よくあるのが出入口付近で高校生が4,5人で丸くなって話をしているとか。
はっきり言って乗降するのに邪魔なんですよね(^^:: 客席側まで入ってくれれば乗降もスムーズなのに。



今の小学校の授業って、「道徳」っていう授業がないんですよね。(あったらすみません)
私が小学生の頃はありましたが、「道徳」ってやっぱり大事なんじゃないかなと思います。
たとえ授業という形でなくても、他人を思いやる心を育てるようなことを学校でやっていただきたいですね。
なんか最近の日本って、自分達のことしか考えていないような人が多くなったような気がします。



話が逸れてきましたのでここまでにしておきます。
次回と言っても、この後すぐになると思いますが、また別の短編を予定しています。
次回は[.que]さんではなくて、TINÖRKS(ティノークス)の代表者でありメンバーの建水さんのソロ曲で
短編を書いてみたいと思います。
ホームドラマになるのか、児童小説になるのかはまだここでは書けません(^^::



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
また次回をお楽しみに。