契約

 


冷たい北風が吹いている夜の街。
多くのビルがそびえ立つ中、あるビルの屋上に1人の男、マサトがいた。
茶色のコートに身を包み、座って右手に缶ビールを持ちながらマサトは寒そうに体を震わせている。
ビールを飲もうと缶を口に近づけようとすると、マサトの口からクシャミが出た。



寒いなあ、でもこうしているのもこれで最後だ。



マサトはビールを飲み干すと、空になった缶を床に置いた。



どいつもこいつも、みんなでオレの事をバカにしやがって・・・・・。



マサトはゆっくりと立ち上がると、数メートル先にある柵に向かって歩き始めた。



マサトは昨日、会社をクビになったばかりだった。
ここ数年の不景気で会社は人員削減をせざるを得なくなり、マサトが削減対象になったのだ。



オレがどうしてクビなんだ?オレが何か悪いことでもしたのか?
オレ以外で悪い事してる奴等がいくらでもいるってのに・・・・・・。



そう思っていると、マサトは思い出したように一瞬立ち止まった。



そういえば、あの女もオレの事バカにしやがって・・・・・。



マサトには片思いをしていた女、ミオがいた。
社内の女性で、マサトは思い切って告白したのだが、あっさりと振られてしまった。
その後ほどなくしてミオは結婚したのだが、マサトが社内で一番嫌いな男が相手だったのだ。



どうしてよりによってあんな男と結婚したんだ。あんな最低な奴と。
絶対に許せない。



マサトは再び歩き出し、柵の前まで来ると、両手を柵にかけた。
そして柵を乗り越え外に出ると、マサトは目の前に広がっている景色を見た。



もうこんな生活とはおさらばだ・・・・・・・。



マサトは飛び込もうと足を一歩前へと踏み出した。
その時マサトは思わずビルの谷間を覗き込んでしまった。
地上には豆粒くらいの人々が歩いているのが見える。
マサトは怖くなり、踏み出した足を後ろへと引っ込めてしまった。



死ぬ勇気もないなんて、オレも情けないな・・・・・・・。
これからオレはどうすればいいんだ。



心の中で嘆いていると、後ろから声が聞こえてきた。



「こんなところで何をしているんですか?」



マサトは声のする方を振り向いた。
すると誰もいない。



おかしいな、確かに後ろから声がした。
オレ、ついにおかしくなったか・・・・・・?



マサトは怖くなって大声で叫んだ。
「だ、誰だ?いるのなら出てこい!」



するとマサトの目の前に真っ黒な姿をした何かが現れた。
ふたつの赤い目がマサトをギロリと見つめている。
「うわっ!」
突然現れたものを見てマサトが思わず声をあげると、その黒いものはマサトの右手を取った。
「ここにずっといるのは危ないですよ。場所を移しましょう」



マサトは気が付くと、柵の内側に移動していた。
「ここは・・・・・いつの間に移動したんだ?一体あんたは・・・・・・」
マサトが黒い姿をしたものの姿を見ているとその黒いものはこう答えた。
「申し遅れました。私は悪魔という者です」
「あ・・・・悪魔だって?悪魔ってあの悪魔か?」
悪魔という言葉にマサトは信じられないという顔で聞き返した。
悪魔はうなづいて
「そうです。あなたが知っているあの悪魔です。頭には黒い角、全身真っ黒・・・・あ、尻尾や翼もこの通りあります」
とマサトに背を向けた。



確かに・・・・蝙蝠みたいな翼と先が尖った尻尾がある。
ということはこいつは本物の悪魔か・・・・・・。



マサトが黙って悪魔を見ていると、悪魔はマサトの方を向いた。
「ところであなた、さっきここから飛び降りようとしてましたよね」
「あ、ああ・・・・・それがどうした?人が死ぬところを邪魔しやがって」
「あなたのこれまでの人生を見させていただきました。理不尽な出来事ばかり続いて辛かったでしょう」
「ああ。オレの人生めちゃくちゃだった。どうしてオレの事知っているんだ?」
「悪魔ですから、それくらいの事くらい分かりますよ。それであまりにも可哀想だと思ってこうして出てきたんです。
 あなたにある提案をしにね・・・・・・」
「ある提案?」
「あなたの人生をリセットして、最高の人生を送ってみませんか?私が保証しますよ」
「え・・・・・?」
悪魔の言葉にマサトが戸惑っていると、悪魔はさらにこう言った。
「今まであなたをバカにした奴等を見返してみませんか?私の言う通りにしていただければ最高の人生をお約束します」



それを聞いたマサトは半信半疑だった。
「本当なのか・・・・・?お前の言う通りにすれば、オレの思い通りの人生を送れるのか?」
「はい」悪魔は深くうなづいた。「ただし、条件があります」
「条件・・・・・それは何だ?」
「あなたが死ぬ時に、あなたの魂を私にください。それが唯一の条件です」
「死ぬ時にオレの魂を・・・・・・」



どこかの本で読んだ展開だな。
これが悪魔との契約ってやつなのか・・・・・・?



マサトが黙っていると悪魔はマサトの顔を伺いながら
「どうかしましたか?気が進まないのなら今回はなかったものとして帰りますが」
「あ、い、いや待ってくれ」帰ると聞いてマサトは慌てて悪魔を引き留めた。
「本当に条件はそれだけなのか?後で追加で何かあるって事はないんだな?」
「ありません。あなたの魂さえ私に下さればそれでいいのです。どうしますか?」



オレの魂と引き換えに思い通りの人生を送れるなら・・・・・・。



マサトは思わず息をのみながら悪魔に言った。
「分かった。お前と契約しよう。死ぬ時にオレの魂をお前にくれてやる」
「ありがとうございます」
悪魔はニヤリと笑いながら、マサトに契約書の紙を差し出した。



マサトが契約書にサインを終えると、悪魔は契約書を受け取った。
「これで契約は成立です。これからあなたの人生は思い通りになりますよ」
悪魔は微笑みながら契約書を消してしまうと、マサトから離れて空を飛び始めた。
マサトは悪魔の姿を見上げながら
「おい、オレはこれからどうすればいいんだ?」
「あなたは心の中で、自分がどうしたいかを思ってくれればいいだけです。そうすれば私があなたの思い通りにしてあげましょう」
悪魔が空高く飛び去ってしまうと、マサトは屋上の出口に向かって歩き出した。



マサトはビルを出て立ち止まった。
悪魔と契約したのはいいが、本当なのかどうかまだ半信半疑だった。



本当に思い通りになるのか試したい。



マサトが辺りを見回すと、通りの先の方に派手な照明が目立つ建物を見つけた。



パチンコ屋か。試すのにちょうどいい。
今までの負けを取り返せるかどうか確かめてやる。



マサトはパチンコ屋に入って行った。



数時間後、マサトは上機嫌でパチンコ屋から出てきた。
両手には大きな紙袋を抱えている。



参ったな。今までこんなに勝ったことなんてないぞ。
つっこんだ金額より何十倍にもなって返ってくるなんて・・・・・。
あの悪魔との契約は本物だったんだ。



悪魔との契約が本物だと分かると、マサトは何かを思いついたのか顔をにやつかせた。



そうだ、いいことを思いついた。
思い通りになるなら、この機会を使わない手はない。
オレの事をバカにした連中に思い知らせてやる・・・・・・・。



不敵な笑みを浮かべながら、マサトは帰路についた。



その後のマサトの人生はガラリと変わった。
ギャンブルをすれば連勝し、ある程度お金が貯まると今度は株に手を出した。
購入した株でも常に儲けが出て、マサトはたちまち大金持ちになっていった。



そんな中、マサトは昔勤めていた会社の男が亡くなったと聞いた。
今流行っている伝染病で亡くなったという。
その男は、マサトが恨んでいた男だった。



あの男、ついに死んだか。
昨日ふっと思い出して悪魔にお願いしたら、すぐに死ぬなんてな・・・・・。
そんな事ならもっと早くお願いすればよかった。
しばらく自分の事で忙しかったからな。
本当に死んだのか行って確かめてやるか。



マサトは葬儀場へと向かった。
大勢の人達が集まる中、マサトは中に入り、焼香の列に並んでいると右横を見た。
右側には黒服の親族が並んで座っており、その中にミオがいた。



しばらく見なかったけど、相変わらずきれいだ。
あの女も独り身になったから、オレの女になってくれればいいのに。
もうオレの事なんて覚えてもいないだろうな。



マサトは焼香を済ませると、ゆっくりとその場を後にした。
そのまま会場を出ようとすると、後ろから声をかけられた。



「あの・・・・・・・」



マサトが振り向くと、そこにはミオが立っていた。
マサトはミオの姿に一瞬戸惑った。
自分のことなんて覚えていないだろうと思っていたからだ。



マサトは戸惑いながらミオに聞いた。
「な・・・・・なんでしょう?」
「あなた・・・・以前あの会社にいましたよね?名前は・・・・・・」
「マサトです」マサトはすぐに答えると続けてこう言った「よく覚えていましたね。もう忘れていると思っていました」
「覚えているわ」ミオはマサトの顔を見つめながら言った「会社であなたに告白されたんですもの」
「ええ、そうでしたね・・・・・・話はそれだけですか?それならこれで・・・・」
マサトが前を向いて帰ろうとするとミオは申し訳なさそうに
「あの時はごめんなさい。亡くなった主人と付き合っていたものだから。結婚も決まっていたし・・・・」
「え・・・・・・?」
マサトがミオの方を振り向くと、ミオは次にこう言った。
「今はあなたの方が素敵だわ。今は主人の葬儀でしばらく時間が取れないけれど、落ち着いた頃にまた会いたいわ。
 よかったら連絡先を教えて。連絡するわ」
「え・・・・・は・・・・・はい!」
マサトは思いがけない出来事に驚いた。



しばらくするとマサトはミオと付き合い始めた。
ミオとの交際は順調で、結婚するまでそれほど時間はかからなかった。



本当に好きだった女と結婚できたなんて最高だ。
あの憎かった男もいなくなったし、オレをバカにする人間はもういない。
思うだけで何でも叶うなんて、最高じゃないか。
オレの人生はこれからも最高の人生だ。



マサトは全てを手に入れたような幸福感に浸っていた。



その後もマサトの人生は順調だった。
新たな事業を始め、社長になると業績は急激に上がり始めた。
会社も有名になり、周りからちやほやされる日々。
マサトは自分が世界のトップになったような気がした。



これからはオレが中心になってこの世界を動かすんだ。



マサトはすっかり舞い上がっていた。
自分がこうだと思えば何でも自分の思い通りになると思ったマサトは
周りに対しだんだんと横着な態度を取るようになった。



会社では自分と意見が合わない者はすぐクビにした。
自分の思い通りにいかないことがあると、相手に罵声を浴びせたりもした。
社内にきれいな女を見かけると、すぐ声をかけその女と一夜を過ごすことも多くなった。
ミオが待っている家に帰らない日々が多くなり、浮気相手を何十人も抱えるほどになった。



そんなある日の朝、マサトは家に帰ってきた。
「ただいま。今帰ったよ」
「おかえりなさい」マサトの声がした途端、ミオが玄関にやってきた。「また朝帰りですか?」
「またとは何だ」ミオの言葉にを聞いたマサトは不機嫌になった。「お前のためにこっちは一生懸命働いているのに」
「本当にそうなんですか?また他の女のところに行ってたんじゃないんですか?」
「う、うるさい・・・・・・!」
マサトがミオの顔を殴ろうと手を挙げた途端、マサトは雷を打たれたような激しい激痛に襲われた。
マサトがその場で倒れ込むと、そのまま気を失った。



マサトは気が付くと病院のベッドに横になっていた。
体を起こそうとした途端、頭痛と激しいセキに襲われた。



胸が苦しい・・・・・一体オレはどうしたんだ。



ようやくセキが止まると、そこに誰かが入ってくる気配を感じた。
マサトが顔を上げると、そこには悪魔がいた。



悪魔はベッドに横たわっているマサトを見るなり、話を切り出した。
「契約通り、あなたの魂をもらいに来ました」
「な、なんだって」それを聞いたマサトは驚いた。「オレはまだ死なないぞ。どうしてお前がここにいるんだ」
「いいえ、あなたはもうすぐ死にます」
悪魔は首を振ると、マサトの顔を見ながらさらにこう言った。
「あなたは流行り病の伝染病になっています。ここでは治療の施しようがないほど重症です。死ぬのも時間の問題でしょう」



それを聞いたマサトはさらに戸惑った。
「なんだって・・・・オレは助からないのか?このまま死んでいくのか?」
「ええ、ですからこうして来ているのです」
「嫌だ」マサトは首を振った。「オレの人生はまだまだなんだぞ。まだやりたいことはたくさんあるんだ」
マサトは再び激しく咳き込むと、悪魔は平然とした様子でマサトを見ていた。
「いいえ、もう充分楽しんだではありませんか。やりたい放題好きな事をして。もう満足でしょう」



マサトは咳き込みながら首を振った。
「嫌だ・・・・・・オレはまだ死にたくない。助けてくれ・・・・・・」
「往生際が悪いですね」
マサトの弱々しい声を聞いた悪魔は、マサトの枕元に近づいた。
「契約を守ってもらわないと私も困ります。それに次の契約を果たせなくなりますから」



悪魔がマサトの右手を握ると、マサトは意識が薄れていくのを感じた。
マサトはかすれた声で聞いた。
「次の契約・・・・・・?何だ。次の契約って・・・・・」
「あなたを恨んでいる人がいましてね。その方と契約を結んだんです。ですからそれを果たせなくてはなりません」
「そ・・・・そうか・・・・・・・」
マサトがゆっくりと目を閉じると、悪魔は握っていた手を放した。
右腕がだらんとベッドの外側に下がると、悪魔は静かにその場を去った。



集中治療室の外に出た悪魔は、長い椅子に座ってうつむいている1人の女の前にいた。
「あなたの望み通り、あなたのご主人はたった今亡くなりました」
悪魔の声を聞いた女はゆっくりと顔を上げた。
それはミオだった。



「これであなたの人生も明るくなります。今まで辛かったでしょう」
悪魔の言葉にミオはうなづきながら
「ええ・・・・・やっと辛い日々が終わったわ。あの人と結婚してから幸せだったのは最初だけだったんですもの」
「あの男の莫大な遺産が入って、あなたの人生もこれで安泰ですね。それに・・・・・」
「ええ、これでやっと好きな人と結婚できるわ。あなたのおかげよ」
「でもこれだけは忘れないでくださいね。死ぬ時はあなたの魂をいただくっていうことを」
「分かっているわ。思い通りの人生を送れるならこの魂なんていくらでもあげるわよ」
ミオが微笑みながら答えると、悪魔は不気味な笑みを見せながらその場から姿を消した。





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